挿しす世相史「ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻」
昭和43年8月20日(火)23時頃(現地時間)、ソ連(現ロシア)を筆頭とする、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ(現在はドイツに吸収合併)といったワルシャワ条約機構に属する軍隊が、チェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分裂)領内に侵攻を開始しました。
この年の始め、チェコスロバキア共産党第一書記に、ドゥプチェクが就任したばかりです。
そしてドゥプチェクは、”人間の顔をした社会主義”と標榜する改革運動、”プラハの春”と呼ばれる動きを起こそうとしました。
社会主義国を束ねていたソビエト連邦は、この動きを”反社会主義運動”と捉え、ついに武力を動員して、民主的に選出された他国の政権を蹂躙、放逐するという暴挙に及びました。
これにより、チェコスロバキアを始めとする東欧諸国の社会主義からの脱落は、一時的に押し止まる事となります。
しかし、1980年代後半に、当の宗主国ソ連のゴルバチョフ書記長が推進した、”ペレストロイカ”というソ連版”プラハの春”のような動きにより、元祖”プラハの春”に見られたような社会主義陣営の綻びが徐々に表出し、89年にはビロード革命によってチェコスロバキアの共産党政権も瓦解しました。
この時、新たに政権に就いたハヴェル大統領の下、ドゥプチェクは連邦議会議長として復権を果たしたのでした。
*1:昭和43年8月20日付読売新聞夕刊