無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

【漫画投句】 ど根性ガエルの娘(1)

 ワタクシが小学生の頃に一番好きだった漫画は、『ど根性ガエル』だったのだろう。

 主要週刊5誌と月刊ジャンプ、更には図書館で小学館学習雑誌全誌と冒険王を読んでいたワタクシは、基本的にあまり嫌いな漫画が無かった。

 テレビ番組も見るのも嫌ってほど嫌いな番組ってあまり無くて、なんでもかんでも見ていたのが本拠ブログに繋がっていたりするが、漫画の方も、幅広さはなかなかなものだった。

 考えてみれば、政党にも特に嫌いな政党は無くて、自民党にも共産党にも新風にも投票したことが有る。こういう人間は、実は珍しいのではなかろうか。

 

 ちょっと話が流れそうになったので戻すと、そんなワタクシも、漫画家にファンレターを出したというのは二人しかいない。

 これは本拠の方で書いた事が有るが、一人は柳沢きみおである。

 『すくらんぶるえっぐ』という漫画に異常にハマってしまい、私設ファンクラブにまで入った。そこの活動はきちんとしていて、いま考えれば充実した冊子を作っていたと思う。

 本人インタビューまで敢行していた。当時は「べち先生」なんて言われていて、と言うか本人が語尾に「べち」と付けていたから必然なのだが。永井豪が「ガス」って語尾でよく自作に出て来ていたのを真似したのだと思う。

 彼の話は、いつか彼の作品を扱う時にでも取っておくが、たしかワタクシが高校の時の話である。

 

 もう一人が、吉沢やすみだった。そう言えば、このブログでも、もう書いたんだった。 

 「毎週2、3回は笑えます」なんて、ギャグ漫画家としたら逆に不愉快になる言葉だろうね。

 でも当時のワタクシとしては、本当に驚異だったのだ。

 (毎週毎週、面白くて笑っちゃう所が有るな。他の漫画は一回も笑えないのに。こんなにずっと笑える所が有るなんて凄い事だ)と気付いたワタクシは、その思いを伝えたくて仕方無くなってしまったのだ。

 

 かように『ど根性ガエル』好きのワタクシとしては、『ど根性ガエルの娘』なんて漫画の存在を知った時から、読みたくて堪らなかった。

 けど、けっこう高いんだよね。

 しかし、今ワタクシは楽天ポイントとdポイント獲得の鬼となっていて、毎日毎日マメにくじを引きまくったりしていて、特にスーパーポイントスクリーンが登場してからは、毎月500ポイント以上は確実に稼いでいるのである。

 それで、貯めたポイントや楽天ブックスのセールクーポンなどを合わせたら、300円も出さずに買えるようになったので、ようやく電子書籍で購入できたのである。

 

 内容は題名のままで、『ど根性ガエル』の作者・吉沢やすみの実娘で漫画家の大槻悠祐子が、父である吉沢やすみの来し方を描いたものである。

 伝記とも少し違うから、毎回毎回、時代が違っている。

 数年前の話かと思えば、次の回では『ど根性ガエル』当時だったり、吉沢の清掃員時代だったり、夫婦のなれそめだったりと、行き当たりばったりである。

 ただ、その回その回の単独で見れば、登場人物、すなわち自分の父親なのだが、その心情描写は上手いものが有ると思う。自分が漫画家だから余計に想像できるという事も有るのだろう。

 

 あんな、原作世界を歪めるような実写ドラマなんか企画するくらいだったら、こちらをドラマ化すべきだったのだ。

 ま、いずれ遅かれ早かれドラマにはなるだろうが。

 しかし、つくづく吉沢やすみは良い妻を持ったと思う。

 一発で一生食える漫画を描いてしまったり、彼は凄まじい強運の持ち主なのだとしか言い様が無い。

 博打三昧の時代も勝ちまくっていたと言うが、非常に合点がいく。 

ど根性ガエルの娘 (1)

ど根性ガエルの娘 (1)

 

 

【麻雀回顧】 大隈秀夫(2)

 昭和47年の第三期名人戦も予選は16名の参加だった。

 各麻雀団体からは、日本麻雀連盟から高田英一と金田英一両六段、日本麻雀道連盟から後藤豊水八段と灘麻太郎七段、日本牌棋院から坂田光行と浅倉敏友両六段、東京都麻雀業組合連合会(都雀連)から青木博と今野栄八郎両七段という顔触れ。

 そして著名人、麻雀評論家からは、五味康祐阿佐田哲也小島武夫、古川凱章、板坂康弘、福地泡介。それに双葉社主催の実業団対抗で優勝したコクヨの主将という顔触れだった。

 

 激戦を勝ち抜き、大隈秀夫第二期名人に挑む事となった四名は、金田英一、浅倉敏友、古川凱章、小島武夫であった。

 阿佐田哲也と共に麻雀新選組を成していた小島・古川の両輪が共に決勝進出で、ようやく新選組から名人が誕生する期待が高まった。

 また、小島武夫と守りの神様と呼ばれた大隈秀夫の対決は、攻めの小島か守りの大隈かという興趣を広げた。

 

 結果としては、俊英・古川凱章が見事に名人位を奪取し、自身の麻雀評論家活動の地位を揺るぎないものとした。

 この当時は、この名人位しかタイトル戦も無く、そもそも麻雀専門誌も本格的には登場していない神話時代で、賞金三十万円のこんな小規模な大会であっても、名人という地位には非常に大きな価値が備わっていた。

 しかし、この決勝戦は少しばかり物議を醸した。

 小島武夫が古川凱章の捨て牌を見逃し、山越しで大隈から当たったのではないかと、後の牌譜を見て大隈が噛み付いたのだ。

 

 これに関しては、阿佐田哲也が牌譜を提示しながら解説し、大隈の記憶違いと指摘したものの、遺恨を残した。途中から古川の名人奪取に小島が協力した、片八百長という疑惑の目は消えなかった。

 浅倉敏友を擁していた日本牌棋院は、直接的にはこれを契機とし、麻雀新選組とは犬猿の仲となり、最終的には一切卓を交えぬ事となる。

 これには、阿佐田哲也小島武夫らが麻雀の入門書、戦術書で売り上げを伸ばし、それまでその分野で稼いでいた牌棋院総裁の天野大三の著書が食われてしまったという側面も有った。

 

 やはり、それまでの麻雀書で稼いでいた中核だった、道連盟会長の村石利夫は、「道場破り歓迎」を標榜して在野の腕利きを集めるなどの懐の広さを持っていたためか、終始一貫して新選組やそれに付随した動きにも寛容であり続けた。

 彼の呼び掛けに呼応して来た腕自慢の一人が、この年から名人戦に参加している灘麻太郎だった。後年、灘が第五期最高位戦にまつわる疑惑で近代麻雀誌から出入り禁止となったのと時を同じくして、灘は小島武夫と共に日本プロ麻雀連盟を設立した。

 他の麻雀団体所属者は基本的に灘を擁護するプロ麻雀誌には出なくなってしまったが、道連盟所属プロは、元道連盟の灘個人との繋がりも有って、そちらにも登場していた。

 

 大隈秀夫と麻雀新選組の遺恨は、この決勝だけにとどまらず、昭和48年の近代麻雀主催第一期王位戦予選に於いても、新選組が同志の田村光昭を決勝に押しやるための行為をしたとして大隈が憤激した。

 それでも、大隈秀夫は佐賀出身で福岡出身の小島武夫とは「攻めか守りか」の論争で麻雀界を賑わしたよしみも有ってか、件の最高位戦事件までは、根本的に小島との関係も断たなかった。

 事件の余波で小島・灘・荒といったスター雀士が近代麻雀誌から一度にいなくなったため、大隈秀夫は、本来ならB級転落だった第五期最高位戦の成績を不問にされ、第六期からも引き続きA級で出場した。

 

 そして昭和57年、第七期最高位戦決勝に於いて、わずか28.2ポイントという現在も更新されていない最低得点で最高位を獲得した。

 いかにも守り切ったという辛勝は、守りの大隈の麻雀形態を凝縮したような戦いだった。

 この時、9.2ポイントとただ二人のプラスを堅持した二位は、第三期名人戦で大隈から名人位を奪い取った古川凱章だった。

 この雪辱劇を最後の花道として、大隈秀夫の名は麻雀界から溶暗していった。

挿しす世相史「東京五輪集火式と北朝鮮・インドネシアの帰国」

 昭和39年10月9日(金)、東京五輪の聖火集火式が行われ、国内6700キロをリレーで運ばれた聖火が皇居前で一つの炎となりました。

f:id:sammadaisensei:20161009055840j:plain*1

 

 そしてこの日、一度は参加のために来日した北朝鮮インドネシアが、それぞれ帰国の途に就きました。

 詳しい事情は、こちらの方で説明されています。

紛糾したアジア競技大会とGANEFO。そしてインドネシア北朝鮮の引き揚げ

 

 

 この時、北朝鮮の団長は次のようなコメントを発表しました。

我々は日本に来た時と同じ愉快な気持ちで帰ります。不参加問題の複雑な気持ちは、ここでは述べない。しかし、ただ一つ、全世界のスポーツの発展がアメリカにより妨げられているのは遺憾である。

  北朝鮮インドネシアも、これが五輪初参加となる予定でした。

 昭和39年の東京五輪には98ヶ国が参加を表明していましたが、他にもエクアドルとバルバドスが参加できず、実際の参加国は94ヶ国となりました。

 

 翌10日が開会式で、そのため、10月10日が後に「体育の日」として祝日として設定されました。更に2000年に、体育の日は10月第二月曜となりました。

 この開会式では天皇陛下昭和天皇)が開会を宣言されました。

 先の今上陛下の勅語で譲位の実現を訴えかけられましたのは、来たる新たな東京五輪は、ご自身が充分な任を果たせるかが確言できない以上、若い天皇による開会が望ましいとのご叡慮に拠るものなのではないかと拝察されます。

 

*1:昭和39年10月9日付読売新聞

長谷川豊にやられた

 いやー、まいったな。やられたって感じだ。

 彼の一つ前の記事を見て、まだ失敗を続ける気なのかなと思い、またちょっとキツめの記事を書いて投稿してしまってから長谷川ブログを見たら、こんな記事が上がっているという。

 慌てて自分の前記事は消しました。

 

 長谷川も触れているその中島氏の記事は、ワタクシも上がった日に読んでいて、非常に的確な指摘だなと唸ったものです。

 そして、ここでもリンクしようと思っていたのを忘れていたのを思い出しました。何を書いているかわからないだろうけど、とにかくリンクを貼るぜ。

 

 ワタクシもブログをやっている身だし、言っている内容は理解できるんだよね。

 ただ、ワタクシは一般人の更に底辺の人間だから、アクセス数はほとんど気にしておらず、特にここは、アクセス数が少ない事を前提でやっているけれど。

 

 ワタクシは見た事が無かったのだが、『バラいろダンディ』の動画を見ると、本当に喋りが上手いなあと嘆息する。

 なんで、こんないい仕事をもっと増やす努力をしなかったんだと涙が出てくる。

 これだけの喋りの人間、本当に古舘伊知郎以来、或る面では彼をも超えているとワタクシは思うんだよね。

 お坊ちゃま気質なのか、義憤にかられる部分が有るのだろうとは思うが、そちらは少し力加減を弱めに、されど地道にやる事が、全ての歯車を上手く回していくのではないかと思う。

 喧嘩をして損をするのは、持たざる者ではなくて色々と持っている方なのだから、もう金持ち喧嘩せずを基本姿勢にすることだ。

 

 とにかく、今度の記事を読んで、ワタクシもようやく安心できる。

 物凄く才能が有る人なのは間違い無いんだから。

 それを活かす方法の方を真剣に考えないと、才能を与えてくれた者、才能を活かしてくれた者、才能を支えてくれている者たちに、物凄い冒涜行為ではないですか。

 ワタクシのような底辺のゴミは、多少の事を書いても相手にされないからいいの(笑)。相手した方が損をするのだから。

 そんな立場を雲上人の方が目指してどうするのよという話でね。

 

 もう一人のお利口さんの小林よしのりの方は、今日も今日とて薄汚いですなあ。

 もうリンクも貼らんわ。

 彼も、明らかにブログ執筆能力の欠如した書き手だけれどね。

 彼には長谷川と違って、これまでの徳が有るけれど、それに胡座を掻いているというのは恐ろしい状態である。

 少なくとも、あんな文章が何か良い方に力を持つことは金輪際無い。

 有ってはならぬ事だからである。

朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(34)

キングコング 親指トム

 キングコングは、アメリカ主導で作られた、日米合作のテレビまんがです。

 そもそもの話として、昭和40年前後のアメリカテレビ界で、旧作映画の焼き直しテレビ化や、コミック作品のテレビ化が増えたという事情が有りました。

 シェーン、アイアン・ホース、バットマングリーン・ホーネットといったところですが、昭和8年にRKOで作られた映画が大ヒットした『キングコング』も、テレビまんがとして復活していたのです。

 このテレビ版『キングコング』は、アメリカのビデオクラフトという所と、日本の東映動画とによる合作でした。

 

 アメリカでは番組の試作版が第一回として放送されたりするのですが、『キングコング』の第一回は、日本では昭和41年の大晦日に、『世界の王者キングコング大会』(提供:大塚製薬)と称して、NETで20時から56分番組として放送されました。

 音楽担当は小林亜星となっており*1、歌は藤田淑子となっていますので*2、おそらく、その番組で使われた主題歌が、そのまま昭和42年版でも使われていたのでしょう。

 このキングコング大会の内容は、コングの登場編で、お馴染みの、エンパイアステートビルにコングが登る場面も有ります。

 

  この「合作」という形態は、外国からもお金が貰えるということで、実入りは結構なものが有ったようです。当時の東映動画関係者は、次のように語っていました。

 利益があがるのは合作だ。常時一本は合作を進めて行きたい。アメリカの次は、ソ連、フランスとも考えている。動画の国際性は大きいですよ。*3 

  しかし、お金をたくさん貰える分、全ての発言力は向こうに有りました。そして、再放送権の消滅後は、日本ではOP・EDや名場面としてのほんの一部分すら、放送もソフト収録もされないという状態が続いています。

 

 通常放送は、昭和42年の4月5日より始まりました。提供の中にバャリースオレンヂが有って、当時の視聴者には懐かしい、チンパンジーの活躍する珍パンものと呼ばれるCMが流され、猿繋がりの興趣が有りました。

 『キングコング』の中でバャリースの珍パンCMが流れていた事は、漫画家の小林よしのりも何かで描いていた事が有りますが、記憶力が良いと思います。

f:id:sammadaisensei:20161007070033j:plain*4

 この頃のNET水曜は非常に強力な布陣で、後発局のため全体的にはうだつの上がらなかったNETが、他局を大いに震撼せしめていたものです。

 キングコング当時も、他にジェリコ、ターザン、特別機動捜査隊という並びは、平均20%の視聴率を獲得していたのでした。*5

 

 キングコングの音盤は、朝日ソノラマから新たな番号としてN系列が作られ、N-1として発売されました。

 このN系列は、「ウルトラブックス」と呼ばれるもので、ハードカバーに分厚いA4冊子の豪華版でした。

 恐らく、日米合作の、しかも「キングコング」という名の通った版権ものという事で、従来のソノシートでは採算が厳しかったのではないでしょうか。

 ソノラマの宿敵ビクターも、同様の豪華版を出しましたが、こちらは更に、とびだしコングやカレンダー、お面、カードなどが付録に付いておりました。

 これら豪華版シート冊子は、当時のシート音盤の通常より二割五分増しくらいの高価なものでしたので発行数も少なく、付録まで完品の物が残っていれば、数万円で売れるはずです。

 

 他にグラモフォンがキンダーレコードという名称で出したものと、テイチクのものと、二種のレコードが発売されました。

 レコードの二種では、シートの二種では扱われなかった『親指トム』の主題歌と組み合わされました。

 アメリカのTV漫画というものは、30分番組の中で3本立てという形式のものが結構あって、前後二本の主たる番組の間に、毛色の異なる別番組を挟むという形態も多用されました。

 この『キングコング』もその形式で、前後二本のコングに挟まる形で、『親指トム』一本が放送されていました。

 その『トム』の方の主題歌はシート音盤では収録されなかったわけですが、その辺の事情はよくわかりません。

 

ピュンピュン丸

 『ピュンピュン丸』も東映動画作品ですが、既に東映のソノラマ独占も崩れていましたので、ソノラマのソノシートの他にキングレコードがレコードを発売しています。

 『ピュンピュン丸』は、実写の方の東映制作『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』と、ほぼ同時にNETが放送したものです。

 どちらもギャグを基調とした忍者ものであり、どちらにも怪獣が話の中で関わってきたりして、この頃の子供番組制作姿勢が出ています。

 『ピュンピュン丸』は放送当時、それほど人気が無かったため、音盤もあまり普及しなかったようです。シートですら、そう簡単には出て来ないので、レコードとなると更に稀少で、これも万級品となっています。

 

ドンキッコ

 ドンキッコは石森章太郎(後:石ノ森章太郎)の初テレビまんが化作品で、『ピュンピュン丸』原作のつのだじろう共々、いよいよトキワ荘組が一斉に羽ばたきだした頃合いです。

 制作はピープロで、前作『ハリスの旋風』や『マグマ大使』では朝日ソノラマが独占、もしくはそれに準じる形で優遇されていましたが、ここからピープロ作品も、各社競作体制となっていきます。

 シートは、毎度のソノラマとビクター、更にふらんす書房のミュージックグラフが出され、レコードは、キング、テイチク、クラウン、東芝の4社からと、結構な数の業者が参入しています。

 しかし、正直、この番組は注目度が低く、参入しやすいという事で多くの会社が音盤を出したのだと思われますが、どこも大コケしたのではないでしょうか。

*1:TVアニメ25年史(徳間書店

*2:昭和41年12月31日付読売新聞

*3:昭和42年2月7日付読売新聞夕刊

*4:昭和42年4月1日付読売新聞

*5:昭和424月14日付読売新聞

長谷川豊の炎上を再考してみる そして今夜の生チャンネルは有るのか

 とうとう『バラいろダンディー』まで降板となり、長谷川豊のテレビレギュラー番組が全滅した。

 

 ワタクシが好きだった漫画『男一匹ガキ大将』で、主人公の戸川万吉がそれまでの彼の感覚で白川宇太郎の秘書を殴り、警察沙汰となった時に、海雲寺の和尚が万吉を指差し、教示する場面が有る。

 「大人になれい!」と。

 今般の長谷川豊の一連の言動を見ていると、そう言いたくもなってくる。

 精神的に幼稚な人間は、自分の考える世間が狭い。自分の視界に見えるものが全てである。

 

 だが世の中には様々な人間が居て、様々な価値観を持ち、様々な主張も持っている。それが大人社会というものである。

 その大人社会で自分の主張を確固として述べようとした場合、明文化されていない規則が有る。

 これは、それまでのその人間の生活の中で自然と身についているべきものであって、それを称してその人間の「社会性」と言う。

 社会性が身についていない者は、大人社会では生きていけない。必ず、いつかどこかでなんらかの形で行き詰まる。これはワタクシも二十代に経験しているから言える事である。

 

 大人世界での「社会性」とは、即ち「常識」である。

 勿論、その時々の常識をぶち壊そうとする人も時に出てくるし、成功例も歴史的に皆無というわけでもない。最も歴史的に認識しやすいのは、「革命」と呼ばれる例だろう。

 だが、そのくらいに時代時代の常識をぶち壊すというのは、途方も無い事である。

 最低限、その者の一生を棒に振っても構わないというくらいの覚悟が無ければ、為し得る事ではないだろう。

 

 この「常識」は、人間集団によって微妙に差異も含んでいる。

 会社、地域、国といった個別の集団毎に、けっこう常識が違っていたりする。

 例えばヤクザ社会では、「人を殺してはいけない」という人類の大前提と思えるような事すら、時に否定されるだろう。

 その時その集団は、その集団を包含する、より大きな集団との軋轢を呼ぶ。

 力関係としては、より大きな集団の力が大きい事が一般的であるから、そちらの常識に最終的に摺り合わせていかないと、悲劇が生まれる事となる。

 この「摺り合わせ」が出来る能力も「社会性」である。

 子供が社会性を持ち得ないのは、自分の価値観でしか物事を量れないからである。

 

 長谷川豊の問題は、「ネット社会」の問題ではない。

 彼は公人たる立場で発言し、その位置を利用して影響力を行使しようとした。

 言ってみれば政治家が自分の主張を自分のホームページで書いたようなものである。

 従ってその影響は、彼が存立する「芸能界」の常識に依拠する。

 彼は、その炎上行為が芸として成立すると思っていたのだろう。

 確かに有り得ない事ではなくて、現にこれまでは、結果として見て成立していたのだ。

 

 しかし日本の「芸能界」の常識は、それを包含する「日本社会」の常識から逃れる事はできない。

 彼の最も大きな過ちは、彼に対する批判を、ネット社会の中での批判と誤認してしまった点にある。

 ああした物言いや内容の文言を公然と晒す事は、ネット社会の常識を超えたものだったのだが、そこまで自覚できず、コメント者や多くの忠告、助言を、あくまでも狭いネット社会の中の事と軽視してしまった。

 彼は「ネット社会」に於ける社会性が無く、つまり常識が無かった。

 

 そして、彼が依拠する「芸能界」の常識と摺り合わせなければならない事態だったのに、その認識も出来なかった。

 『バラいろダンディ』という彼のレギュラー番組の中で、「自堕落な透析患者は殺せって言ったら炎上したんですよ(笑)」と一言の中で笑い事にしていたのを動画で見たが、この言動は「芸能界」の常識で考えても通らないだろう。

 その発言後にも彼を使い続けようとした「バラいろダンディ」「MXテレビ」は、それを包含する、より大きな集団である日本社会の常識と摺り合わせなければならなくなった。

 それでも彼を使い続けるという事は、彼らが日本社会の常識に挑戦し続けるという事である。

 テレビの歴史を見れば、そういう事も皆無ではないが、それを成し遂げるのは非常に容易な事ではないだろう。少なくとも摺り合わせをしながら長期に漸進的に行動しなければ為し得ない。

 

 MXテレビは最終的に、長谷川豊にその番組の冒頭で、お詫びの言葉を述べさせる事にした。

 その時点では、恐らく起用を続行する意思が有ったと考えるのが自然だろう。そうでないなら、その場で長谷川が降板の挨拶をしているはずである。

 つまりMX側としては、摺り合わせをしながらやっていくという舵取りをしていたはずなのである。

 そして、彼は自分のブログにもその謝罪挨拶を掲載し、もって騒動の落着を図ろうとするのだが、それが最終的に止めを刺す事となったのであろう。

 

 彼はその謝罪番組の前に、「私は謝罪しています」という単独の記事を挙げていた。

 彼に抗議をした全腎協にも謝罪していると。

 だが、彼の言う「謝罪」は次のようなものだった。

何これ?(→こちら)

全腎協の方々、なんと会長さんの名前入りで「抗議文」なる文章が表示されているんですけれど…

 

すみません。
全腎協の皆さん、これ…これ…本気で書いて、本気で送ってくるのであれば…

もう少し・・ちょっと…色々とアレした方が良いような気がしますが…私はいいですけれど、あなた方があまりにも…きつい言い方をしますと、「おマヌケ」にしか見えないというか…ちょっと対処できないというか…結論から言うと、あなた方がとても損をしてしまうと思います。

 

 大人社会に於いて、と言うか、この物言いは子供社会ですらも、「謝罪」と受け取る人間はいないはずである。

 これは世界中のありとあらゆる人間集団で、そうであろう。

 夫婦であろうが友人であろうが会社であろうが村であろうが国であろうが宗派であろうがヤクザ社会であろうが、こんな物言いをしながら書いている文を「謝罪」と受け取る人間がいるはずがない。

 というのが、ワタクシの持つ社会性で判断する事である。

 

 ワタクシの認識に誤りが無ければ、こうした判断力の人間には、先ず「常識の欠如した人間」という認識が、その所属社会から下される。

 そして読売テレビが彼を降板させた際に、「長谷川氏のブログ、およびその後の患者団体による抗議への長谷川氏の対応などから総合的に判断した」と、公的に知らしめている。

 (その対応では謝罪していると認められない)と、公的に、読売テレビという大きな存在が指摘していたのである。

 ところが、その後の事態である『バラいろダンディ』での謝罪という局面でも、その謝罪文を転載した自分のブログで、彼はまたしても余計な言葉を付け加えていた。

 

「下らない誹謗中傷を誘う可能性のあるタイトルであった」  

まだまだ悪ふざけで、私の名誉を傷つけて楽しもうという連中がネット上に大量にいます。彼らは透析なんて、普段は関心すら持っていない人間達です。私をゲーム感覚で叩いているだけの連中です。私はそんな連中に…絶対に負けずに頑張ってみます。

 

 これらの文章は、アッと言う間に削除された。

 おそらく、何者かに助言、もしくは警告、通達されたのだろう。ワタクシは、きっとMXの関係者ではなかったかと考えている。

 そもそも一つの番組の冒頭に、個人の謝罪の場を設けるという事は、放送業界ではかなり特別な事態である。

 MXはそこまでして彼を庇おうとしていたはずなのであるが、恐らく、その代わり次は無いよという警告もしていたろう。

 そこに持ってきて、その謝罪を転載している記事での上記文言。

 ここまで来ると「常識の欠如」より更に進んだ、「人格破綻者」の振る舞いである。

 そんな者を庇い立てすれば、共に轟沈するのが目に見えているから、今度は音も無く彼を即時降板させたのだろうと見ている。

 

 透析なんて普段は関心もない人間達に、長谷川豊は、先入観を植え付けるという最も忌避されるべき方策を採ったからこその、ここまでの事態なのである。

 彼を取り巻く社会は、ネット社会も芸能界も、そして間違い無く日本社会も、そんなものは認めていないからこうなっているのだが、自分の視界からしか物事が見えない彼は、まだ「俺は悪くない」という判断しか出来ていないのだろう。

 子供の、それもかなり出来の悪い子供の思考回路である。

 そして彼が作り出した偏見は、彼の本来は意義ある活動であったはずの「医信」という活動への偏見として返っていく。

 

 長谷川豊の悲劇(自分の視界からしか物事を見られない)は、恐らく、若い頃に挫折を経験していない事から来るものなのではないだろうか。

 頭も顔もスタイルもそこそこ良く、そこそこモテて、そこそこの大学を出て、そこそこの企業に入って、そこそこの人気を得て。

 声や発声は素晴らしく良く、弁論大会でもアナウンサー入社試験でも傑出した結果を出し続けてきた彼。

 彼から見ればネットにたむろする木っ端など、馬鹿に見えて仕方ないのだろう。この辺は、小林よしのりにも共通していそうだ。

 それを隠す術も上手に表現する術も知らない彼こそが、実は愚かなのであるが。

 この失敗を糧に「無知の知」に至らなければ彼の成長は無いが、フジテレビ時代にもかなり大きな失敗をしていてのこれだから、前途は暗いかもしれない。

 

 ともかく、今日は生チャンネルの日である。

 無料なので、アンチも、応援者も、レギュラー番組ゼロとなった彼がどんな振る舞いをするか、ぜひ見てみるべきだろう。

 と思ったら、今日の予定はまだ入っていない。流石に今日は放送されないかもしれない。と言うか、Abema からも見放されてしまったか?

 なかなか貴重な放送だったのだが。アンチとしても、彼を監視する場として、ここだけは活かして置いた方が面白いのに。

 

 炎上芸は難しい。彼の失敗の最大要因は、「アナウンサー」という肩書きに有ったと見ている。

 その路線を堅持したいなら「芸人」としてしまった方が良いし(それでも難しいし今回の件は許されないだろうが)、あくまでも「アナウンサー」「報道」で行きたいのなら、炎上芸は無理が有る。

 せっかく他者より大きく秀でた点を持っているのだから、それを有効に活かそうと努力しない事は、あまりの冒涜行為であろう。

昭和唱和ショー「肥後守」「ボンナイフ」

 肥後守(ひごのかみ)と聞いて、なんの事なのかすぐに判る層は、かなり年代が上になると思います。50代でも知っている人間は少ないでしょう。

肥後守 - Wikipedia

 ボンナイフは、ナイフの一種という事はすぐわかりますが、形を思い浮かべる事が出来る人は、肥後守よりも少ないかもしれません。

第12回「子どもに刃物は持たせるな」の巻

 

 肥後守が姿を消し、代わりにボンナイフが出て来た理由としては、どうもネットを巡回した感じでは、上記サイトで書いている浅沼委員長刺殺事件が切っ掛けという話が独り歩きしておりますが、自分以外の者はあまり信じないワタクシは(笑)、同時代資料を探求してみました。

 すると、少なくとも「肥後守追放運動」については確認できました。

f:id:sammadaisensei:20161005065523j:plain*1

  後に政治家になったので、ご記憶の方も少なくないでしょう。警視総監として鳴らした秦野章が指揮を執った事でした。

 

 昭和35年5月3日、碑文谷警察の管内で、或る業界新聞の婦人記者が刺殺された事件が切っ掛けと有ります。その時に警視庁刑事部長だった秦野章が、新聞社などに働きかけて実現した運動だったのです。

  秦野章と言えば、昭和31年の捜査課長当時に公開捜査という技法を実現させたのも彼です。刑事部長当時には機動捜査班も作ったり、総監になってからは交通110番を設置したりと、警視庁のアイデアマンとして有名だったのでした。

 その彼が捜査を進めてゆくと、ナイフを持った中学生・高校生がやたら多いと。そこで、部長会議の席上で、刃物追放運動をやりたいと発案したというのです。

 

 この頃は、日米安保条約締結と、それに伴うアイゼンハワー大統領来日かという世情で、非常に殺伐とした空気が日本中に蔓延しておりました。

 それで当局側としては、少しでも危険の芽は摘んでおきたいというのは有ったでしょう。それでも、浅沼委員長刺殺事件は起きてしまうのですが。

 とにかく、当の言い出しっぺが昭和42年という比較的近い時期に回想して述べているのですから、刃物追放運動の直接の切っ掛けは、婦人記者殺害事件であるという事です。

 ちなみに、物取り目的だったという、この事件の犯人が逮捕されたという話は見つけられませんでした。だからこそ、そういう運動で世間の目を逸らしたというのが実情ではないでしょうか。

 何故なら、それまで日本の学生がナイフを持っているのは、誰にも違和感の無い日常の光景だったはずなのですから。

 

 肥後守はワタクシの頃には、学校に持ってきていた者はおらず、みなボンナイフでした。ワタクシは、それですら怖くて、よくそんな物を使うなあと見てました。

 しかし、何故か家には肥後守が有りました。当時はただのナイフと認識してました。

 ピッと取り出すとサッと刃物が出てくる感じが格好良くて、何度も悪党の真似をしてなりきっていた気がします。

 テレビや映画で不良が描かれる前は、みな鉛筆削り用とか、ただの道具としてしか認識していなかったのでしょうが、不良が格好良く描写される映像が出て来て、精神の幼い者がそれに影響されるという事は、間違い無く有ったろうとワタクシは思います。

 思えば、その頃、60年代が日本の大きな転換点だったのでしょう。様々な意味で。

*1:昭和42年12月7日付読売新聞