昭和唱和ショー「肥後守」「ボンナイフ」
肥後守(ひごのかみ)と聞いて、なんの事なのかすぐに判る層は、かなり年代が上になると思います。50代でも知っている人間は少ないでしょう。
ボンナイフは、ナイフの一種という事はすぐわかりますが、形を思い浮かべる事が出来る人は、肥後守よりも少ないかもしれません。
肥後守が姿を消し、代わりにボンナイフが出て来た理由としては、どうもネットを巡回した感じでは、上記サイトで書いている浅沼委員長刺殺事件が切っ掛けという話が独り歩きしておりますが、自分以外の者はあまり信じないワタクシは(笑)、同時代資料を探求してみました。
すると、少なくとも「肥後守追放運動」については確認できました。
後に政治家になったので、ご記憶の方も少なくないでしょう。警視総監として鳴らした秦野章が指揮を執った事でした。
昭和35年5月3日、碑文谷警察の管内で、或る業界新聞の婦人記者が刺殺された事件が切っ掛けと有ります。その時に警視庁刑事部長だった秦野章が、新聞社などに働きかけて実現した運動だったのです。
秦野章と言えば、昭和31年の捜査課長当時に公開捜査という技法を実現させたのも彼です。刑事部長当時には機動捜査班も作ったり、総監になってからは交通110番を設置したりと、警視庁のアイデアマンとして有名だったのでした。
その彼が捜査を進めてゆくと、ナイフを持った中学生・高校生がやたら多いと。そこで、部長会議の席上で、刃物追放運動をやりたいと発案したというのです。
この頃は、日米安保条約締結と、それに伴うアイゼンハワー大統領来日かという世情で、非常に殺伐とした空気が日本中に蔓延しておりました。
それで当局側としては、少しでも危険の芽は摘んでおきたいというのは有ったでしょう。それでも、浅沼委員長刺殺事件は起きてしまうのですが。
とにかく、当の言い出しっぺが昭和42年という比較的近い時期に回想して述べているのですから、刃物追放運動の直接の切っ掛けは、婦人記者殺害事件であるという事です。
ちなみに、物取り目的だったという、この事件の犯人が逮捕されたという話は見つけられませんでした。だからこそ、そういう運動で世間の目を逸らしたというのが実情ではないでしょうか。
何故なら、それまで日本の学生がナイフを持っているのは、誰にも違和感の無い日常の光景だったはずなのですから。
肥後守はワタクシの頃には、学校に持ってきていた者はおらず、みなボンナイフでした。ワタクシは、それですら怖くて、よくそんな物を使うなあと見てました。
しかし、何故か家には肥後守が有りました。当時はただのナイフと認識してました。
ピッと取り出すとサッと刃物が出てくる感じが格好良くて、何度も悪党の真似をしてなりきっていた気がします。
テレビや映画で不良が描かれる前は、みな鉛筆削り用とか、ただの道具としてしか認識していなかったのでしょうが、不良が格好良く描写される映像が出て来て、精神の幼い者がそれに影響されるという事は、間違い無く有ったろうとワタクシは思います。
思えば、その頃、60年代が日本の大きな転換点だったのでしょう。様々な意味で。
*1:昭和42年12月7日付読売新聞