昭和唱和ショー「夜鳴蕎麦」
Gさん(仮名)「夜鳴きソバって、♪ パララ~ララ パラララララ~の、チャルメラ吹きながら回ってる屋台のラーメン屋さんですよね」
ごいんきょ「ああ。もう、暫く見てないねえ」
G「最後に見たのって、いつ頃ですか?」
ご「ん~…… 40年くらい前かあ…」
G「だは(苦笑)。かなり前の話ですねえ」
ご「と言っても、わしが食べたのはって話で、それが最初で最後。夜鳴き自体は、その頃、毎晩ではないけどウチの周りにはちょくちょく来ていたな」
G「チャルメラを聞いたら家を出て呼び停めるんですよね」
ご「そうそう。それで、その場で食べても良いし、ウチの場合は家から丼を持って行って、それに入れてもらったっけな」
G「ああ、そういう食べ方も出来るんですか。家でも食べられたんですね」
ご「出来たよ。と言うか、都会ではむしろそれが自然な形だったんじゃないの。どこでも屋台を止められるわけじゃないから。ウチの周りは、当時はまだ車の通行量が少なかったから良かったけどね。まして夜10時とかは死んだような静けさだったから、当時は」
G「あれって、いつ頃から有るんでしょうね」
ご「発祥は江戸時代とかになるんだろうけど、その頃は当然、文字通りの蕎麦、日本ソバだったんだろうからな。ラーメンの夜鳴きとなると、明治時代って話と、大正時代って話が有るな。どうも明治かもしれない。それで、震災後に発展したようだ。元は、やはり中華街だったようだが」
G「当時は支那ソバと呼ばれてたでしょうね。で、戦中は当然、そんなものは無くなったんですよねえ」
ご「そりゃそうなんだろうな。それが戦後に露天商が栄えだして、夜鳴きソバも増えたようなのだが、衛生面の理由から締め付けが強くなって、一時的にまた消えたらしい。それが昭和30年頃に緩和されて、また増えたと。わしらが知っているのは、それ以後のものだな」
G「実際、美味しかったんですか?」
ご「味はねえ、当然、それだけ取れば美味しいなんてものではないわけ(笑)。ただな。木枯らし紋次郎だかを見て一家で布団の中だったと思うけど、突如聞こえたチャルメラに揃ってソワソワしだして、食べようかとなって、わしが止めに行って全部の丼一個ずつ持って帰って、それで全部揃ってから家の中で食べたという夜の風景ね。これが格別の味なのよ。ファミレスなんかでは味わえない。
あの頃の、なんにも無い夜、遊び事も少ない中で、鮮烈な光を放ったように聞こえた夜鳴き。幾らお金を積んでも、どんな高級料理店に行っても、あれは味わえない。我が人生最高の食事の想い出だな。
思えば、一家揃って外食なんかした事が無かったわ、我が家(苦笑)。それが唯一の”外食”だったんだな。だから、わしにとって特別な想い出だったんだ。この年になって初めて気がついたわ」
G(本当に寂しい人生だよなあ、コイツ……)
「衛生面は問題無かったんでしょうかね、当時はもう」
ご「いやあ… 屋外だから、丼の洗浄だってどの程度きちんとやっていたか…。ウチは器持参だったからいいけど。
で、それよりまた後になると、器がプラ容器になるのよ。それだと使い捨てで、洗わなくて良いし、衛生面も問題が無くなった」
G「カップラーメンとかが大いに普及した後での話ですね」
ご「尤も、器が使い捨てになったら屋台が止まらなくなって、客だけポツンとその場で器持って啜らなければならなかったなんて話を何かで読んだな」
G「そりゃ災難ですね(苦笑)」
*1:昭和30年9月11日付読売新聞