無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

8月8日勅語をワタクシがどう感じたか

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日) - 宮内庁

 

 天皇が「個人として」という前置きの下に発言されるという事は、これまでの常識からすると違和感が伴うが、それも時代なのだろう。

 今日は、この勅語をワタクシ個人がどう受け取ったかを書いておこうと思う。

 

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共におこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。 

 

 昨今、小林よしのり方面がよく用いる表現として、天皇への同情心を民衆に植え付けようとしているきらいが有って、ワタクシは大いに違和感が有った。

 恐らくその辺は、高森明勅あたりも実は違和感を持っているだろうと推察するのだが。

  だが陛下は、キッパリと、国民のために祈るという務めは幸せなことなのだと仰った。

 人間、或る程度生きて人生とかを考えるようになれば、まともな大人であれば誰でも大なり小なり、人間とは他人のために生きているのだと悟る時が来るはずである。

 それが解らない者は、永遠に不幸感に苛まされながら過ごさなくてはならない。

 

 畏れ多くも小林一派は、天皇陛下がそのようなみみっちい悩みを抱えていると(受け取れる)解説をしている。流石に、それは酷すぎるだろう。

 まともな大人であれば例え一人でも他人のためになりたいと願う中、天皇というお立場は、遍く日本国民のために生きる事が出来るのである。

 ワタクシなどは、天皇陛下のお立場を羨むくらいだ。

 だが、ワタクシはワタクシで、卑賤の者として生まれた運命を受け入れるしかない。その中で、卑賤で非力なりに、穀潰しにはなるまいと歯を食いしばっている。

 これは殆ど全ての社会人がそうなのであって、当たり前ながら陛下のご叡慮は、そんな事も全て包含されて、「その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ」と表して下さっている。

 しかも畏れ多くも、「深い信頼と敬愛をもって」と仰って下さる事に、市井に埋没して日常を格闘している人間で胸を熱くしない者はいないであろう。

 

 天皇というお立場は、間違っても国民が同情するような安っぽいものではない。我々がどれほど望んでも決して届く事の出来ない高みにいらっしゃるのである。

 それはそれとして、天皇と言えども現実には生身であらせられるのだから、実際の行為に負担を感じるという事は我々と違わない時も有るであろうし、そのような配慮は当然持つべきで、小林一派が言いたい部分はそこなのだという理解はワタクシにはできるのだが、恐らく一般的には、単なる同情心を植え付けかねず、そういう表現法が非常に不満である。

 更に畏れながら拝察すれば、次代の皇室を担う人々に、公務というのは、かように幸せな事なのであると示していらっしゃるのであろうとも、ワタクシは感じた。

 

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 

  高森明勅は些か舞い上がって、

これは事実上、これまで摂政設置を唱えて来た者どもを、
陛下ご自身が「反逆者」と認定されたに等しい。

  などと書いているが。

 本当にいつの世にも、勝手に叡慮を自分の中で作り上げるだけに止まらず、他人に向けて自分の言葉のように話す者がいるものだ。かなり舞い上がっているとしか思えないので、自重して戴きたい。

 自分がそう感じるのは自由だが、自分の言葉で自らの責任に於いて話すべきである。

 ワタクシの解釈では、陛下が「反逆者」などというチンケな視線で下々をご覧じるはずがない。

 

 ちなみにワタクシも摂政について触れたが、勿論それは、典範を改正して表現を改めての話である。

 今般の情勢でも、純粋な気持ちとして、生きていらっしゃる限り、天皇としてお名前だけでも留めておいて戴きたいと願う国民も居る。

 今上陛下はキッパリと拒絶されたが、未来の天皇に、そういう選択肢を残すというのは必要な事なのではないか?

 陛下も高齢時代に触れていらっしゃるが、昭和・平成のような高齢の天皇は、確実な歴史の中には存在しないはずで、それが二代続いたという事で、制度の中に考慮しなければならない視点のはずである。

 

 大橋巨泉のようにスローダウンしたタレントもいれば、永六輔のように死ぬまで現役であろうとしたタレントもおり、スポーツ選手の活躍にしてもそうであるが、どちらの生き方にも支持する者はいるのである。

 天皇に生涯現役でいて欲しいと願う国民、それに応えたいと思う天皇のための制度を考えておく事が反逆になるのだろうか?

 事は制度の話なのだから簡単な話で、例えば「天皇は加齢のため摂政を置く事が出来る」とか規定すれば良いわけだろう。そうすれば、天皇の仕事の引き継ぎだって自然に出来るのではないか?

 一方で、譲位や退位は、非常に成文規定が難しいと思う。

 何故なら、退位の自由を認めるなら、就位の自由も認めないとおかしい。

 こうなってくると基本的人権の話まで行ってしまい、象徴天皇憲法で規定する事にそもそも無理が出て来てしまう。(という議論も避けられなくなる恐れが出る)

 だからワタクシは、(典範改定の上で)摂政という考えも有るとしたのである。

 実際小林にしても高森にしても、上皇の規定を具体的にどう表現すれば良いと思っているのだろう。例によって、そこまで考えてない、か(笑)。

 

その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

 

 ご自分の経験も踏まえて、次代の皇族には難しいのではないかと、率直に述べられている部分であると拝察する。

 陛下が摂政を拒絶された理由は、それが「反逆」だからではなく、

この場合(摂政)も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

から と、明確に仰っているではないか。

 つまり、なんとか天皇崩御に伴う公務だけでも減らしてあげたいという思いやりであろう。

 そうなると、次のお立場が上皇とか太上天皇とかで良いのかとも思うが、その辺は新たに規定する問題だからどうとでも出来るとのご判断であろうし、その辺は十二分に考慮されるだろう。

 但し、それはあくまでも今上天皇の取られたお立場であって、民衆のためにも未来の天皇には選択肢を残しても良いのではないかというのは、ワタクシは感じる。

 

そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 

 「摂政」に関して明確に拒絶された陛下が、継承に関しては具体的な表現を避けていらっしゃる。

 当然の話、本来は男系継承が最も望ましい事を誰より痛感していらっしゃるのは、陛下であらせられるはずなのだから。

 既に長くもなったし、継承問題はまた長くなってしまうので、今回はここまでにしておき、また土曜の恥恥放談で私観を書こうと思うが、ごくごく少数の者で今回の「お言葉」を憲法上疑義が生じるように言う者は、陛下は国政に関しては一つも発しておられない点に留意すべきであろう。

 陛下が触れられているのは、八十を超える身になるまで数十年、文字通り全身全霊で勤め上げられた自身のお勤めに関する事と、付け加えるに、家内の問題だけである。

 それすら認めぬ者は、法律というのは人間のための道具にすぎないという事を理解すべきである。気触れと外国工作員には通じないだろうが。