昭和唱和ショー「リーゼント」
Gさん(仮名)「今回は”リーゼント”に迫るという事でしたが」
ごいんきょ「ああ。今回も徒花満載だぞ(笑)」
G「ネット上に、知る人ぞ知る徒花を咲かせ続けるのが趣味というブログですからね(笑)」
ご「なにが”バズる”だよカス共(笑)。そんな仕込みか炎上狙いか炎上狙いの仕込みなんぞ糞喰らえだ。
わしは誰も歩かぬ山道を、花を愛でながら行くぞ」
発案者は誰か
G「とまあ、ここをやっている動機みたいなものをさり気なく匂わせておいて(笑)、リーゼントって日本発祥って事らしいんですが」
ご「ウィキペディアによると、中国放送の調査では、小田原俊幸という人が考案したという事で、例によってネット上では、その情報一色で埋め尽くされている」
G「違うんですか?」
ご「わしは、銀座でユタカ調髪所を経営していた増田英吉さんが考案したという記事を見つけたんだが…」
G「この記事によると、最初に考案したのは戦前らしいですね」
ご「ああ。そして、戦後にリバイバルしたとある。それを裏付ける記事として、昭和25年1月22日の読売新聞が”桃色クラブ”について報じた中に、一味の少年の姿を”リーゼントスタイル”と報じているんだ」
G「つまり、戦前に一部で流行って、戦後すぐにリバイバルブームのようなものが有ったんですね。
しかし、”桃色クラブ”ってなんなんですか。大体想像つくけど(笑)」
ご「簡単に言えば、肉体で稼いでいた十代の男女だな」
G「その頃からリーゼントって、不良少年の髪型だったんですねえ。
しかし、小田原さんが考案したという話は嘘でしょうか」
ご「わしが考えるに、小田原さんは”リーゼント”と命名した人なのかもしれない。増田さんは、日本人と西洋人の肉体的差異に気付いて、”前面をいったん膨らませてから後ろになでる”という髪型を考案した。しかし、それを”リーゼント”と名付けたとは書かれていない。
一方、小田原さんは、”リーゼント”と命名した理由も言っていたようだから、小田原さんが命名したというのは本当なんだろう。
つまり、二人が”リーゼント”と思っていた髪型は、それぞれで多少の差異が有ったんだろうな」
G「確かに、我々が”リーゼント”と言われて思いつく髪型も、けっこう違いが有りますよね」
ご「ジェームズ・ディーン、プレスリー、キャロル、横浜銀蝿……
みんな似た感じではあるけれど、統一感は無いな」
G「小田原さんがリーゼントを作った時期は、いつなんですかね」
ご「昭和24年らしいな。すると、桃色クラブの記事とも矛盾が無いから、証言が補強された感じだ」
G「まさか、そんな桃色クラブの記事なんかその時に調べてないでしょうから(笑)、辻褄を合わせて証言する事は不可能ですもんね」
ご「でも、一年そこらで髪型や言葉がそこまで浸透するなんて、凄い事だけどな。それが増田さんの功績が大きいのか、小田原さんの功績が大きいのかは、かなり細かい検証を必要とすると思う。
ただ、”アイパー”に関しては増田さんの考案という事で間違い無いようだな。この当時、読売という大きな新聞紙上でこれだけ大きく扱われた記事、当時の理容関係者は大概見ていると思うんだよね。それで”リーゼント”や”アイパー”の考案者と書かれていても問題が無かったのだから、わしは、どちらも増田さん考案説に分が有ると見るよ」
ロカビリーによる再リバイバル
G「最近はリーゼントも廃れてしまったからか下火に感じますが、昭和時代は末期まで、ジェームズ・ディーンの人気は衰えてませんでしたね」
ご「やはり不良どもとしては、あの髪型で格好良い佇まいだから憧れが有ったんだろうな。結構ポスターとかで使われてたよな」
G「ジェームズ・ディーンが活躍したのは昭和30年代はじめ。プレスリーも殆ど同じ頃ですね」
ご「そして日本ではやや遅れた昭和33年、ロカビリーブームが巻き起こる」
G「渡辺プロの女帝、美佐さんが仕掛けたものですね。つい先だって亡くなった平尾昌晃さんと、当時のお笑い大スターだった柳家金語楼さんの息子さんだった山下敬二郎さん、そして今も健在のミッキー・カーチスさんが三人男として飛び出しました」
ご「彼らも当然、プレスリーを真似てリーゼントだったわけよ。平尾昌晃はアイドル的な人気歌手だったけど、後に体を壊して作曲家に転向して、裏側から渡辺プロの発展に貢献した」
G「その後は、どんなリーゼントの人がいましたっけ?」
ご「昭和40年代に入ると、リーゼント不毛時代に入る。先ず、フォークソングが台頭してくるだろ」
G「ああ、マイク真木さんとか、フォーク・クルセダーズとか」
ご「みんな健全な髪型だったな(笑)」
G「そう言えばそうですねえ。ボブ・ディランとかはロックのように反抗的な姿勢だったのに、初期の日本フォークは字義通りに”外国民謡”の延長だったような」
ご「で、日本ではロックがGSという形で定着しだす」
G「”長髪”ですね」
ご「『女みたいな髪しやがって!』と、世の親父共が激怒していたっけな(笑)。
この長髪は、昭和40年代後半に出て来た反抗的フォークとか四畳半フォークにも受け継がれたんだよな、何故か」
G「僕の髪が肩まで伸びて君と同じになったら結婚しよう、ですからねえ(苦笑)」
ご「GS時代、襟足を伸ばすだけで女みたいな髪と親父連中から唾棄されていたのに、どんどん伸びて、肩を越える髪の男も普通にいたからな(笑)」
G「確かにリーゼント不遇の時代が続きますねえ」
再々リバイバル、そして……
ご「そして、いきなり彗星のように出て来たのが、キャロルだよ」
G「あ~。矢沢永吉さん、ジョニー大倉さんたちのロックバンドですね。♪ 君はファンキーモンキーベイビーッ」
ご「わしねえ、その歌、中学生の時に聞き取れなくてさ。♪ 君はヤキモキ ベイビーッ って歌ったら、太くんが『ファンキーモンキーベイビーだよ』って冷静に教えてくれて、凄く恥ずかしかった(苦笑)」
G「ヤキモキベイビーって(笑)。でも、意味は通りますね(笑)」
ご「通るだろ(笑)。”ファンキーモンキーベイビー”何それ、意味わかんない。なんかヤキモキした気分にさせる女の子、ヤキモキベイビー、これ単純」
G「そう言えばワタクシも小学生の時、フィンガー5の”恋のダイヤル6700”って歌が有りましてね」
ご「ゼロゼロじゃなくてオーオーって読むのが、なんか新しい感じだったな」
G「頭で電話のベルが鳴って、妙子が”ハロー、ダーリン”って答えて音楽が始まるんですよ」
ご「格好良かったよなあ、井上忠夫の音楽。しかも、それを小学生が歌うというね。我々の超アイドルだったんだよ」
G「で、ワタクシ、”ハロー、だあれ?”と言ったら、女子の志田さんが、『ダーリンだよ』って笑顔で教えてくれまして(苦笑)」
ご「それ、かなり嘲笑が混じっていた笑顔だな(笑)」
G「その頃の小学生に、”ダーリン”なんて語彙の中に有りませんよ(苦笑)。今の子ならわかるんでしょうけど。
だもの、”だあれ?”の方が意味が通るじゃないですか(苦笑)」
ご「いや、確かにそう。だって受話器取っていきなり”ハロー、ダーリン”って、おかしいよ、よく考えたら。ダーリンからの電話かどうかわからないじゃない。あそこは”だあれ?”が正しい。君は合っている(笑)」
G「そんな余談はさておきまして(苦笑)、キャロルに続いてダウンタウンブギウギバンドも出て来ました」
ご「リーゼントにツナギ、サングラスという姿が、不良バンドの定番として受け継がれていくな。あの頃、テレビに出る歌手が黒眼鏡を掛けるなんて常識外れだったんだから」
G「”黒眼鏡”ってのも昭和語ですね(苦笑)」
ご「しかしウィキペディアの”リーゼント”の稿には、キャロルもダウンタウンブギウギバンドも名前が無くて、後発のクールスだけ載っているというな。色々と不備の多い扱い方だ」
ご「さて、昭和40年代後期になってキャロルが出てくるまで、かなり長いことリーゼント氷河期が続いていたわけだけど、何故キャロルがあの姿で出て来たかわかるかい?」
G「いや~、なんでなんですか?」
G「おぉ~! ロカビリー三人男だったミッキーカーチス。
結び付きましたね~。彼がリーゼントを指示したんですかね」
ご「それはわからないけど、違うとしたら余計に因縁的だよな。
で、これらからまた少し間が空いて横浜銀蝿とかが出てくるわけだけど、それはキャロルとかダウンタウンブギウギバンドの影響が大きいんだろうな」
G「戦後昭和日本にリーゼントが有り続けた理由として、ロックという音楽が非常に関係性が深いんですねえ、ロカビリー時代まで含めて」
ご「そして今、ロックだのロックンロールだのって言葉も、だんだんと死語化しつつある中で、反骨の音楽集団なんてのも姿を消しつつあって、リーゼントも消えゆく運命なのかという時代だな」
*1:昭和39年8月2日付読売新聞