麻雀回顧「花登筐(2)東スポ王座杯」
ジャパンカップ
あきまへんなあ、やっぱり、どれも来そうな時というのは。
それで二千円に抑えたつもりだったのだが、考えてみれば、前回当てた時に1500円張ったのだって、いつもの1.5倍とかリキ入れてたんだった(笑)。
どうも、少し勝つと気が大きくなって、すぐに勝ち分を無くしてしまう。
次回からは、これまで通り予算千円だ!
麻雀回顧「花登筐(2)」
第八、九期と名人位を連覇した花登筐は、それまで全く麻雀マスコミに扱われなかった新鮮さも手伝って、俄に麻雀界の脚光を浴びた。
東京スポーツでその頃、王座杯という麻雀タイトル戦を行っていて、毎日対局牌譜を載せていた。今では考えられない事だが、そのくらい、麻雀マスコミが注目されていたという事になるだろう。
ワタクシはその頃、プロレスもかなり好きだったが、流石にスポーツ新聞を読むまではいかなかった。毎日購読するとなると、若いワタクシの金銭的負担が激増するからだ。
だが、ワタクシにプロレスの愉しみを教えてくれた男がいて、そいつは麻雀仲間でもあって、或る時、東スポには王座杯という麻雀の試合が載っていると教えてくれたのだ。
ただでさえ、毎日プロレスの試合結果を載せている東スポは、我々の垂涎の的だった。ソイツは勿論、既に購読していたのだが。
そこへ麻雀の試合が毎日載っていると聞いたワタクシは、色めき立った。
誰が参加しているのだと確かめるために有名雀豪の名を挙げていくと、「出てるな」という返しが続いた。
小島武夫、古川凱章、灘麻太郎、田村光昭の四強は全員出場していた。
小島と古川が参加するタイトル戦は、当時これくらいだったはずである。
しかも、有名人も出ているという。
「畑正憲は」「いたな」
「福地泡介は」「出てるな」
福地泡介はワタクシの好きな雀豪だった。この時点で興奮は最高潮である。既に7割方購読を決心しつつあった。
「福地泡介が出てるという事は、まさか名人の花登筐は出てないよな」
多忙な作家である事は充分知っていたワタクシは、出ているわけがないという前提で聞いてみた。
「あ、はなとって言うのかな。花なんとかってのはいたな」
「なにぃっ!? 花に登るではなとって言うんだけど、出てるの!?」
「なんか、そんなのいたよなー」
間違い無い。花登筐である。この時点で購読指数は針を振り切り、120%を超えた。
その日から早速ワタクシは、毎日下校時に東スポを読みながら電車に乗る男となった。
いま思い返しても、東スポの最も素晴らしかった時代だと思う。
馬場・猪木は健在で、鶴田・藤波も育ちつつあり、異種格闘技戦は展開されていたし、IWGP構想はぶち上げられたし、その東京スポーツだからこそ実現した、国際・新日・全日の三大団体参加オールスター戦までぶち上げられた。
東スポの背後にいた大立て者の児玉誉士夫が、そもそも健在だった。
伝説を信じる事が出来る時代だった。
そんな一面を開いて真ん中ほどの娯楽面に進めば、先に挙げた面々の他に長門裕之なんて渋いとこまで加わっての総勢16名が、総当たりのような形で一人あたま一年かけて16荘くらいずつ打ち合うという、麻雀タイトル戦まで楽しめたのである。
ちなみに第一期王座は田村光昭、第二期王座は灘麻太郎で、16荘とは言え一年かけて打ち合うだけはあって、それまでは順当な人間が勝っていた。
ワタクシが読み始めたのは第三期からで、花登筐はその年からの参加だった。
この第三期は、決勝に小島、灘、古川、長門が残り、それまでのポイントを引き継いで、最終二回線を上位四人で打ち合うという形だった。
小島武夫がそこまでの一位で、二位が灘、三位が古川だったか。
始まる前は、事実上、小島と灘の争いに見えていた。
だが、古川が先行する小島を追い詰めていく。
「小島さん、グズグズしてるとタイトルがどっか行っちゃうよ」と灘が軽口を叩いたが、結果は本当にそうなってしまった。