麻雀回顧「古川凱章」
函館スプリントステークス
昨日は故有って昼から飲んでしまい、そのためだろうが眠くなって昼寝していたら、目が覚めたのが3時40分…
いつもなら3時間も4時間も昼寝するなんてまず無いのだが、酒が入っていたのと、やはり暑さで消耗していたのだろう。
恐る恐る結果を見たら、一番気に掛けていた16番が一位!
しかも残り二頭もそれほど難しくなく、三連複で抑えていた可能性は結構有った。100円が4万以上になっていたかもしれない。
いや、そんな事よりも、16番を気に掛けながらあれやこれやと選べなかったのが本当に悔しいし、悔やまれた。
何故、ワタクシが買えない時に限って穴が狙い通り来るのか。
そういうものなのだと諦めるしか無い。こんな事はワタクシの人生では路傍の石よりよく有る光景である。
麻雀回顧「古川凱章」
前回の稿を書きながら検索していて、古川凱章が今年初めに亡くなっていた事を知った。
麻雀打ちの訃報など、限られた範囲でしか伝わらないから、ちょっと疎くなるとこうなってしまう。
古川凱章は、小島武夫に続く誌上プロ第二号と言える存在である。
双葉社主催の第一期麻雀名人戦で麻雀放浪記の阿佐田哲也と11PMの小島武夫が邂逅し、麻雀新選組結成の話が持ち上がった。
この時、小島が阿佐田に推薦したのが、彼が店員だったアイウエオという雀荘の常連で、瞬く間に日本麻雀連盟五段になっていた古川凱章だった。(たしか小島と共に連盟新記録)
奔放無頼な印象の小島に対し、沈着冷静という役どころだった古川だが、小学館勤務という堅い定職を、麻雀に没頭したために二年で袖にしてしまったという男でもあった。所詮は博打打ちなのだ。
古川は第二期から名人戦に参加し、翌年の第三期、日本麻雀連盟の金田英一六段、日本牌棋院の浅倉敏友六段、新選組の同志・小島武夫、そして大隈秀夫名人(いずれも当時)と決勝を戦い、見事に名人位を奪取している。
実はこの時、途中脱落したに等しい位置の小島による古川アシストが有ったか否かで、大隈や牌棋院とかなり揉めたのだが、それは置いておく。
とにかくこの時より、古川凱章の麻雀タレントとしての命脈は、かなり強固なものとなった。
古川は、よく「理論派」と呼ばれていた。だが、今となっては、そんな「理論」など実はまやかしであった事はすぐ知れてしまうだろう。
「体勢論」などという事をやっていたが、それは理論的なものでもなんでもない。なんの裏付けも無いと言って等しいものだったが、要は麻雀タレントとしてどのように訴求力を持つかが重要なのであって、古川はそういう需要を十二分に掘り起こしていた。
彼は意識してそうしていたのか、それとも、本当の本気で体勢論なるものを信じていたのか、それは実は、どうでも良い事だ。
彼は紛う方無く「プロ」としての訴求力を持っていた。
その背景となる「理論」は、しかし、彼から目に見える「強さ」は奪っていった。
東スポ主催の第三期王座杯で優勝し、更に第十一期名人戦で返り咲きを果たしはしたものの、それでも全般的なタイトル戦での戦績は、あまり芳しいものだったとは言えない。
古川自身からすれば、一位でないものは最下位でない限り、2位だろうがマイナス得点だろうが同じという考えだったのかもしれない。
阿佐田哲也とはまた違った「アングル」で、古川も麻雀タレントとしての立ち位置を模索していたのだろうか。
阿佐田哲也や小島武夫を馬場型に例えれば、古川は猪木型を志向していたようにも思える。
だが猪木と言えども、リアルを装ったアンリアルである。
古川凱章は、本気で、本当に強い人間が麻雀を勝てると思っていたように思える。
本名は「よしあき」と読むようだが、麻雀界では「がいしょう」という呼び名以外で呼ぶ者はいなかっただろう。
先に書いた近代麻雀誌のラジオCMでも、「あさだてつや、こじまたけお、ふるかわがいしょう、はたまさのりらが大活躍」と言っていた。
本人はどのように呼称していたのだろうか。