無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

麻雀回顧「近代麻雀」

ダービー

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 年に二回、ダービーと有馬記念は、いつも千円以内としている予算の嵩上げを認めていて、今回も大枚!三千円を投入。

 せめてこれくらいの予算が有れば、かなり戦略的な購入が可能となってくる。ただ、固いのが来た場合の実入りは激低だが。

 今回の場合は4頭が頭抜けていたが、特に枠の関係で1、3,8の三頭一本で絞るという手も有った。

 だけれど、やはり穴も抑えておきたいんだよね。それに負けるの嫌だし(笑)。

 てな事で、通常であれば絶対に負けない買い方で固く行き、結果、人気1~3位の馬が上位3頭という無難な結果となったため、わずか1250円の儲け。なかなか塩っぱい勝負が続く。

 だが今回は、知人がまあまあの結果だった。

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 ワタクシほど塩っぱい買い方をしていないのと、予算が一万円も有ったというので、3万円以上の実入り。

 いつも手数料など貰っていないが、流石にこれだけの勝ちだと半端な2500円くらいは貰っても罰は当たらないだろう。だから合計すれば、ワタクシも4000円近い収入になるだろう。

 受付番号の2も別の知人の分だが、そちらは外れ。ワタクシが千円宛がって素人に買って貰ったのだが、無知故の買い方でハマれば面白いと思ったものの、こうもど本命で来ると生きない。その分を入れても三千円くらいの実入り。

 今回はど本命で入ったので、潤った人もかなり多いのではないか。

 やはり競馬界で最も皆が本気で臨む試合だけに、順当な結果となって皆が幸せって感じで宜しいかと。川田騎手も、もう一段伸びるのではないか。

 

麻雀回顧「近代麻雀

 前回、雀球を回顧したのに合わせて、そろそろパチンコ回顧を一旦休止し、麻雀回顧に移ろうと思う。

 昭和時代には花形ギャンブルだった麻雀も、今は目も当てられぬ惨状で、こんな話をしても読む人は殆どいないだろうが。

 昭和の頃には麻雀にも専門誌が有って、「近代麻雀」と「プロ麻雀」という二誌が、その代表だった。どちらも今でも有るのかもしれないが、一般的な書店で目にする事は無くなった。

 尤も昭和時代だって、所詮は限られた世界の話で、普通の書店ではどちらも1、2部しか置いていなかったと思う。ワタクシはどちらも買っていた。

 

 ワタクシが近代麻雀の名を初めて耳にしたのは、昭和48~50年くらいだったろう。ラジオのニッポン放送で、欽ドン!の前後のあたりでCMが放送されていた。「阿佐田哲也小島武夫、古川凱章、畑正憲らが大活躍」なんて惹句だったかと思う。

 畑正憲というのは、有名なムツゴロウ先生その人である。麻雀界の大恩人である。この人については、いつかそれなりの文を書くだろう。

 阿佐田哲也は、「哲也」という漫画のお陰で、若い人でも名前だけは知っている人も増えた感じだ。本名の色川武大直木賞を取った作家で、阿佐田哲也の名で麻雀小説を書き、「麻雀放浪記」という名作を生み出した。

 が、彼の麻雀界に於ける最大の功績は、麻雀新選組を生み出した事に有る。その新選組の二大巨頭が、小島武夫、古川凱章である。

 

 阿佐田哲也という人の麻雀は、「見せる」麻雀だった。

 彼は麻雀を知り尽くしていた人だっただろう。だから「勝ち」を麻雀の最前の見世物としてしまった場合、「プロ」という存在が脆弱になる事が解っていたし、そこを最も懸念していたと思う。

 ワタクシも、その辺は大いに判るのだ。

 もし本当に、麻雀の実力差が歴然と結果として出るようになる蓋然性を高めたいと考えるなら、まず4人打ちを二人打ちにする必要が有る。こうするだけで、かなり実力が反映されるようになる。

 だが、そんなものはもう麻雀とは別物に近くなり、何よりもプロという存在が必要とされる程の一般的な人気は獲得できなくなるだろう。

 麻雀専門誌は、「競技麻雀」という変梃な言葉を作り出し、一発・ウラドラ無しという部分を持って、競技性を高めていると誤魔化していた。

 

 しかし、表ドラだって所詮は運に左右された存在であり、それを使いこなすのも技量と強弁するのであれば、割れ目でも赤5筒でも否定できなくなってしまう。

 勿論、配牌や自摸が運否天賦のものという大前提は有るが、ドラはたった一枚で1飜もつくという、従来の麻雀の感覚をぶち壊すものであった。

 もし本当に麻雀の競技性を高めたいと真摯に考えている人間がいれば、二人麻雀を提唱するくらいの大改革的な新次元を見出すか、或いは本来の麻雀の姿を踏み外したくないのであれば、アルシャル麻雀(リーチ麻雀ではない本来の麻雀)を志向するのが本筋であるとワタクシは考えている。

 だが、どちらも麻雀界ではまったく俎上にも乗った事が無い。麻雀界が唱える「競技性」なんてものは、中途半端な、なんの突き詰めも無いものだ。

 

 阿佐田哲也は、そんな「競技性」などという不確かなものを超越している部分に「プロ」の価値を求めていた。

 「見せる」という事であり、語弊を怖れずに言えば、それはプロレスのような麻雀を志向していたのだろうと、ワタクシは考えている。

 ワタクシも、あの時代にはそれで良かったのだと思うし、彼らのような存在が有ったから、あそこまで部数が伸びたのだろうと思う。

 阿佐田哲也は、よく麻雀の神様と呼ばれる。

 それは神様のような打ち筋をしていたからでも、神様のような人格で業界を引っ張っていったからでもない。

 曲がりなりにも「プロ」と呼ばれる存在が誌上で活躍するお膳立てをした、創造主・造物主であったという事なのだ。