昭和唱和ショー「平凡パンチ」
Gさん(仮名)「いつの間にか、”平凡パンチ”も懐かしむ対象となってしまってるんですねえ。
ごいんきょ「宿敵だった集英社のプレイボーイは、一応は健在なのになあ。集英社は雑誌作りが上手かった」
G「これって、創刊は昭和39年4月28日なんですね」
ご「トップ記事は鈴鹿グランプリ。それに五味康祐一刀斎の夜のバット談義(笑)、吉行淳之介司会のデート談義、プレイボーイクラブレポートなどが目を惹く記事だな。あと、自動車プレゼントが目玉。
要は、車と女だ(笑)」
G「昭和50年代前半頃まで、男性向け記事のその流れは変わりませんよね」
ご「ああ。その他に賭け事とか服飾なんてとこだな。それは平凡パンチ創刊の頃から網羅されていたというのがな」
G「と言うか、パンチが雛形を作ったんでしょうか」
ご「うん。パンチ以前にも男性週刊誌が企画された事は有ったんだけど、見事に転けたんだよね。だから、パンチがあそこまで成功するとは思われてなかったろう」
G「やはり、”ヌード”が利いたんですかね」
ご「上の広告では、官憲だか新聞社にだか遠慮したんだろうけど、凄い小さい文字で”すごいヌードもあるョ”と書かれてる。後には誰それが脱いだ!なんてのがトップになるのと比べると、やはり昭和30年代はまだまだ大人しい」
G「ヌードと言っても、この頃はほとんど外人モデルだったようですね」
ご「大和撫子は、まだ人前で裸になるなんて事には抵抗が大きかった時分だな。後には誰それが ※ 繰り返し」
G「これって、やはり売れたんですよね、かなり」
ご「売れたからこそ、次々に後追い企画が出されたのよ。
翌昭和40年夏には、”HEIBONパンチDELUX”という隔月刊誌を創刊するし、これも好調だったとみえて、更に41年には増刊で女性版パンチも出すんだ」
G「平凡パンチの女性版なんて有ったんですか」
ご「で、こんな美味しい市場を独占させておく手は無いってんで、集英社が41年から週刊プレイボーイを始めるんだけどな。とにかく昭和40年代初頭は、平凡パンチ我が世の春よ。
勢いというのは恐ろしいもので、偶然に特ダネまでモノにしてしまうんだ」
G「特ダネ?」
ご「うちでも以前”挿しす世相史”で扱ったBOAC機墜落事故の様子を、パンチの記者とカメラマンが偶然目撃して、見事にカメラに収めたのよ」
G「正にパンチがノリに乗っていた時期なんですねえ。
それが、どうして駄目になってしまったんでしょうか」
ご「デラックスパンチ、デラパン創刊直後に丸谷才一が男性週刊誌論を書いているんだけど、ちょっとピントがずれてるように感じる部分も無いではないが、”快楽追求ムードの中で夢見る心理を拡大”させていると指摘していて、それはそうだったなと思うのよ。
車なんて典型だけど、女も、服飾も、当時の男は簡単に手に入れられないものだったわけ。賭け事を含む娯楽にしても、まだまだ日本人は楽しみ下手だった。
でも、高度経済成長の恩恵が行き渡り始めて、庶民の暮らしも少しずつ上向いていた時期なんだよな。夢物語ではなく、手を伸ばせば届くかもという所まで来ていた。
そういう時代にそれらへの水先案内のような事をして、時代を先導していたんだな」
G「あ、なるほど。そして、それらが実現してしまう世の中になったと」
ご「その通り。昭和50年代後半になると、いよいよ日本の経済状態も盤石となり、本格的に消費拡大社会となる。
車も、服飾も、娯楽も、全てが憧れではなくて実際に楽しむものとなったわけ。女に関しては、雑誌以上に過激なビデオ媒体が出て来た。
こうして、平凡パンチが先導してきた時代に現実が追いついてしまい、存在意義が無くなっていったんだな」
G「いま言いながら思ったんですけど、現在の若者は、またそれらを手に入れるのが難しくなっているようですよねえ。男性誌復活とはならないんでしょうか」
ご「時代背景がまるで違うよ。現在のそれは、或る程度行き渡ってからのそれだから。そんなものに憧憬は持てないだろ。
今はネットなどの疑似体験で、かなり欲求不満を解消できる。身悶えするような希求、欲求なんて、なかなか持てないんじゃないの?」
G「それってやっぱり、幸せな事なんですよねえ?」
ご「そうなのかな。考え方次第だな」