文藝春秋10月号「皇后は退位に反対した」を読んで
文藝春秋10月号に、「皇后は退位に反対した」と題する記事が載っている。それを読んでみたら、色々と感じていた違和感が、かなり払拭できた。
違和感というのは、女系派の代表と言って良い小林よしのりと高森明勅が、かの八八勅語の前後に吹聴していた数々の言葉が、いかにも今上陛下の真意を余さず知っているかの如きものであって、かつ、ワタクシの見立てでは、それはあんたらの妄想がかなり混じっているだろという次元に感じたからだ。
8月8日、譲位への“玉音放送”。
その中で陛下ご自身が、ご公務の際限のない削減や、
摂政の設置は望まないという趣旨のことを、明言しておられる。「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての
行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。
また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を
果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも
考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを
果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに
変わりはありません」と。これは事実上、これまで摂政設置を唱えて来た者どもを、
陛下ご自身が「反逆者」と認定されたに等しい。ここでは敢えて一々、名前を掲げない。
しかし、それらの人達の今後の身の処し方に注目したい。
で、ワタクシは、「忖度」するにしても「誰それが反逆者」などという次元が低い事を陛下があのような場で述べたなどと吹聴する事はあまりに酷いと思ったので、自重めされよと書いた。
小林よしのりも、その後に雑誌の欄外で高森と同じ趣旨のことを書いていたのだが、案の定、陛下が「摂政」という制度でも納得できないと発言されていたのは、まだ内々の話に於ける6年も前の2010年7月22日であったと文春にはある。
参与会議の出席者は、陛下の「退位」のご意向に全員が異を唱え、当然の事として、「摂政」という制度を勧めた。
ここで特筆すべきは、その出席者の中には当然、皇后陛下もいらっしゃって、皇后陛下もかなり「退位」に反対めされ、摂政案を支持されたのだという。
これが普通の感覚ではないか?
できれば存命されている限り、その位にとどまっていて戴きたい、お名前だけでも良いのですとする感情は、それほど特別な感覚ではないだろう。
そしてその際に、最も時間を掛けずに実現できる方法というのは、「摂政」設置となる。
ワタクシも、その方が次帝陛下への引き継ぎも自然に出来るのではないかと書いたが、この時の参与からもそのような意見が出されたという。
参与というのは様々な立場の者がなっているのだが、経験者の一人は、「経験や専門の知見を活かすというよりも、国民としての立場で発言してほしい」と要請された立場だったという。
勿論、その時の会議で陛下が切り出された、「私は譲位すべきだと思っている」という言葉は、それまでの参与会議とは次元の異なる重い会議の幕開けとなったのだが。
とにかく八八勅語にも迸っていたように、今上陛下は民の心を掬い上げるという事に心を砕いていらっしゃるという事だろう。なんとも勿体ないことである。
そして、その場の参与全員と皇后陛下までが反対される中、天皇陛下はキッパリと「摂政では駄目なんだ」と述べられたという。
その説得はかなりの長時間に及んだと描写されているが、陛下は頑として受け付けず、日付が替わるまでも質疑に応じられていたという。
その「摂政」を退けられた理由は、八八勅語の際にお述べになられた事を仰ったようである。
この時には高森・小林の言う奸賊たちは「摂政」どころか「退位」も耳にしていないわけで、先の高森の「これは事実上、これまで摂政設置を唱えて来た者どもを、陛下ご自身が『反逆者』と認定されたに等しい」というのが妄想に過ぎなかったという事である。
べつに二度と皇室に関して発言するなとは言わないし、まして切腹しろなどとは言わないが、仮にも陛下の言葉をねじ曲げて自分たちと考えの異なる者を排除するのに使うという愚行は、今後は痛烈に指弾するのでよくよく注意されたい。
愚かな事に,高森・小林の発言は、結果的に皇后陛下のその時の仕草をも侮蔑してしまった。
自分自身の考えを先走らせて、勅語を恣意的に使ってしまった報いというものだ。
これらの事からワタクシが拝察、そして感じ入ることは、次のような事だ。
国民も感じた事は、慎みを持ちながら述べれば良いのだ。
それがどのようなものであろうと、陛下は大きな心で受け止められ、受け入れられぬものは断固として受け入れない方であられよう。
先の勅語や参与会議で、陛下は「摂政」という提案をキッパリと拒絶された。皇后陛下のお勧めであっても。
人格攻撃が陛下の御心に沿うものかどうかは正常な人間なら判断つくだろうが、ワタクシはやりたいならどうぞご自由にという立場だ。
ヘイトスピーチなどというものは規制すべきものではなく、むしろ利用すべきものなのだから。
それが誰にでも判るように現出したのが、先の都知事選での石原慎太郎「大年増厚化粧」発言だろう。
あの時、小池百合子は内心ガッツポーズしてるだろうなと思ったものだが、実際にそうだったろう。間抜けな都議どもは、いまだにそれが理解できていない。
他にも理解できていない人種が女系派方面にいそうだが、寝首を掻くのは嫌なので予め書いておくと、人格攻撃もこちらはしっかりと利用させて戴くので、盛大にやって欲しい。
朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(30)
先日、本連載の主たるネタ本の著者である橋本一郎氏に直接お話を伺う機会を得たのですが、かなりの長時間、それも細々した話まで全く厭わずに快くお答えを頂けて、非常に有り難い事でした
その記事は、もう少ししてから拙作ブログの一つであります『昭和テレビ探偵団』の方で公開致しますので、興味のございます方はお気に止めていて下さい。
ソノシートの一作一作について出来ればお話を伺いたいと思っていたものの、あまり細かい話を続けてもご迷惑で嫌がられるかなとも思い、適当な数で切り上げようとしていたのですが、北関東から出向いた当方のために、この機会になるべく多くの事に答えて下さろうというご厚遇を戴きまして、かなり細かく確認させて戴く事ができました(勿論、ご記憶でない事も多かったです)。
橋本氏には、ここでも改めまして深くお礼を申し上げます。
しかし、そのように様子を伺いながら断続的に確認を進めていたために、『とびだせ!バッチリ』については聞き逃してしまいました。
これは日本テレビ夕方の6時35分から毎日10分ずつ放送されていた、一週6話完結のテレビまんがで、『戦え!オスパー』と同じく日本放送映画が制作しました。
『オスパー』は日本クラウン専属の山田太郎が歌唱を担当したために、他社は専属歌手の壁に阻まれ、さしものソノラマもテレビと同じ歌手を使用する事は出来ませんでした。
ところで、『オスパー』に関して書きました際に、歌謡曲畑の人間ばかりが集まったクラウンが、なぜ早々にテレビまんがの主題歌を担当する事となったのかが謎と書きましたが、橋本氏から伺った話の中に、非常に興味深い事が有りました。
なんと、「艶歌の竜」こと馬渕玄三が朝日ソノプレスに日参して、ソノラマの独占をなんとか切り崩そうとしていたというのです。
その辺の話は上記サイトでの記事公開をお待ち戴く事としまして、どうやら発足間も無い日本クラウンは、不慣れなテレビまんがの音盤すらも当座の資金稼ぎとして焦点を当てていたという事になります。
謎の一つが解けたような思いでした。
この『バッチリ』は、短い帯マンガという事で、あまり注目されなかったかと思いますが、可能な限り全てのテレビまんがを音盤化するという不文律が有ったかの如き朝日ソノプレスは、このような番組もソノシート化しました。
他に、ソノラマの初期の宿敵とも呼ぶべきビクターもシートで出しております。
ここでも多々資料として使わせて戴いている、レコード探偵団による労作、『1960年代 漫画ソノシート大百科』には、他にコダマプレスによるシート音盤のみが掲載され、主題歌3番までと「ミスターチャックの巻」「びっくり大仏の巻」が収録されている事までは判っていますが、その他の情報は一切不明となっています。
これだけ商品が出て来ないという事は、市場で発売されずに終わった可能性が高そうです。恐らく、あまり販売数が見込めないという事で、お蔵入りになってしまったのではないでしょうか。
そして昭和41年の12月になると、初の少女向けテレビまんがである『魔法使いサリー』が始まります。
『レインボー戦隊ロビン』で既にソノラマ独占が崩されていたので、この作品もソノラマ以外の複数社により音盤化されました。
ところが面白い事に、『ロビン』を出した各社は本作についてコロムビア以外は手を出しておらず、『ロビン』は出していなかった勁文社がシートを出しています。
テレビ版と同じ歌手(スリー・グレイセス)で音盤化されていますが、どのような事情でこれが実現されたのかは謎です。ただ、橋本氏の証言では、この頃、彼の上司がかなり各社から口説かれてはいたようなので、その辺の事情なのかもしれません。
コロムビアはダイヤモンド・シスターズというグループを用い、独自音源でレコードとして発売しました。この少し前まで、スリー・グレイセスと言えばコロムビアの音盤という感じだったのですが、この時には関係が切れていたとしか思えません。
『サリー』は開始主題歌は最初から最後まで同じ歌でしたが、終了主題歌が全部で3曲作られました。
2曲目の『いたずらのうた』、3曲目の『パパパのチョイナ』については、コロムビアがLPで収録したものの、シングルでの音盤化はソノラマの独占となっていました。
この構図は『レインボー戦隊ロビン』と同じであり、ソノラマとの独占契約を反故にした東映側も、独占解除の最初のうちはそれなりにソノラマに配慮していたのではないかと思われます。
テレビジョンドラマ誌を振り返る(3)
少し間が空いてしまったが、第三回の今回は通巻9号~12号をご紹介する。
特に10号「大都会」は中古市場でもなかなか出回らず、完全取得の一際高い障壁となっている巻である。
9号の「陰の軍団」も目にする事が少ない方だが、焦らなければ二千円台までで入手できるはず。
第三巻第三号(通巻九号)
特集 影の軍団
グラビア 軍団Ⅳ名場面
千葉真一インタビュー
真田広之インタビュー
軍団Ⅳシナリオ(第一話)
JACコーナー
レコードトピックス
なつかしの名盤珍盤廃盤
サインはV(LP)
テレビジョンドラマ放映作品リスト
1984年11・12月
第三巻第四号(通巻十号)
特集 大都会
プロデューサー 日本テレビ 山口剛
特別インタビュー 石原プロ 石野憲助
名場面 戦いの日々、Ⅱ、Ⅲ
シナリオ完全復刻 Ⅱ「追撃」、Ⅲ「帰ってきた黒岩軍団」
全国テレビドラマ一覧
プロダクション探訪③俳協
レコードトピックス
遥かなり母と娘の旅路 他
なつかしの名盤珍盤廃盤
ザ・スーパーガール(LP)
テレビジョンドラマ放映作品リスト
1985年1・2月
第三巻第五号(通巻11号)
前号予告では「キーハンターからスーパーポリス」の予定だったが、『スーパーポリス』が急に打ち切りとなったため予定変更。
特集 大映テレビドラマの世界 Part1
ただいま出演中 地井武男
大映テレビドラマの世界
乳姉妹 大百科
捜査検事、ザ・ガードマン、24時間の男、シークレット部隊、燃える兄弟、昼メロ、ぼくたちの疾走、その細き道、高校聖夫婦、スチュワーデス物語、不良少女とよばれて、少女に何が起こったか、青い瞳の聖ライフ、スクールウォーズ、スタア誕生、乳姉妹
テレビの街かど 白い巨塔
全国テレビドラマ一覧
プロダクション探訪④
俳協その2
レコードトピックス
乳姉妹、おみやさん 他
なつかしの名盤珍盤廃盤
ザ・ガードマン 藤巻潤の魅力のすべて
テレビジョンドラマ放映作品リスト
1985年3・4月
第三巻第六号(通巻12号)
特集 大映テレビドラマの世界 Part2
ただいま出演中 原田大二郎
おくさまは18歳、なんたって18歳!、ママはライバル、ラブラブライバル、だんなさまは18歳、事件狩り、夜明けの刑事、新・夜明けの刑事、明日の刑事、噂の刑事トミーとマツ、秘密のデカちゃん、婦警さんは魔女、まごころ、顔で笑って、赤い迷路、赤い疑惑、赤い運命、赤い衝撃、赤い激流、赤い絆、赤い激突、薔薇海峡、赤い嵐、赤い魂、赤い死線、青い絶唱、ひまわりの歌、人はそれをスキャンダルという
保存版 大映ドラマ放映リスト
日本の作曲家シリーズ 富田勲
テレビの街かど
ザ・スーパーガール
全国テレビドラマ一覧
プロダクション探訪⑤
岩淵ぐるうぷ
レコードトピックス
夫婦生活 ほか
なつかしの名盤珍盤廃盤
いんてぃめっと ダ・カーポ グランド劇場を歌う
テレビジョンドラマ放映作品リスト
1985年5,6月
昭和唱和ショー「行水」
先週の「銭湯」に続けての話題です。
こんなクイズ、今では回答できる人もいないでしょう。
たらいにお湯が入っている時点で大体はわかるのですが、タオルと石鹸で決まってきます。ただ、まだ「洗濯」という答えも有り得ますね。
バケツまで考え合わせれば、もう確定です。「行水」となります。
昔の家には直径1mくらいのたらいは必ず有ったものです。ドリフのコントで上から落ちてきたようなやつですね。
主に洗濯機が登場する前後に、洗濯板を用いてそれで洗濯をしていました。その辺に関しましては、来週にでも扱いましょう。
たらいですが、行水という用途にも使われました。もう読めない人も増えているでしょうが、「ぎょうずい」と読みます。
たらいにお湯を張り、中に入って簡単に体を洗い流す行為です。
主に赤ちゃんに対してやっておりましたが、普通の子供、更に時には、大人もやっておりました。
前回書きましたように、風呂が備え付けられている家はまだまだ少なかったからです。
上図の右下の釜は、中に張るお湯を沸かすためのものですね。バケツは風呂桶代わりです。当時は風呂など無い家が多かったので、風呂桶が有る家も少なかったのです。
我が家でも八畳一間に住んでいた頃、夏場にたまにやっておりました。銭湯代の節約になったからでしょう。昭和40年代半ばですが、その頃には家の中で行水をする家は、もう一般的ではなかったのではないかと思います。
今日は行水で済ませようという事になると、大きなタライにお湯を張り、父親、子供という順でたらいに入って体を洗い流します。一番最後は母親でした。
八畳一間ではありましたが、一応、奥に2畳くらいの板の間の台所が有ったので、そこでやっておりました。
今では行水はおろか、大きなタライそのものを置いている家がほとんど無いのではないかと思われます。
*1:昭和25年7月9日付読売新聞
こちら葛飾区亀有公園前派出所の最終回を生きて見られるこの日が来るという事を十年前には考えられなかったけれども三十年前くらいだったら想像できない事でもなかったかもしれないが少々寂しい事は間違い無いもののそう言う資格も無いのかもしれないワタクシの思いを書いてみる
関修一郎 対 佐川睦夫 を予想する
関は、最初は元日拳の睦夫であるから投げに弱いかもとあたりをつけて投げ技を使おうとするかもしれなかった。
ところが、徳夫が日拳でも川上を投げ飛ばせるほどの技を見せてしまった事が、睦夫には災い、関には幸いした。
容易に投げを決められぬと悟った関は、万全の構えで睦夫を落としに掛かる。
その時、吸血鬼・睦夫の噛み付きが炸裂し、関の腕は重大な損傷を抱えてしまう。
とは言え、二回戦で上杉と空手対柔道の最高決戦となる可能性を考えて、対打撃対策もしてきている関に、睦夫の仕掛けも容易に通じない。
焦れた睦夫が、片腕が使えなくなった関にその死角から投げ技を仕掛けに入ろうとした瞬間、巨体の関が瞬間的に見せた蟹挟みが決まり、睦夫は転倒、強か頭部を打つ。
そのわずかな一瞬で関の首四の字が決まり、睦夫は落ちてしまうと見ている。
だが、関も二回戦を前に大きな痛手を負った。どれだけ回復できるかも焦点となる。
こちら葛飾区亀有公園前派出所
とうとう終わりか。師匠のゴルゴ13の方が長く続く事になってしまったな。
それにしても、物事には終わりが有るのだという事を思い知らされる季節が到来している。
ワタクシが子供の頃に不動と思われる人気だった大橋巨泉が死んだり、あのサザエさんすら一桁の視聴率に喘いでいると苦戦を伝えられたり。
こち亀が始まった時に感じた事は、やたら長い題名がわざとらしいなという事だった。
これは、「こちら葛飾区」で切って、「亀有公園前派出所」とワタクシは読んでいたのだが、最初に映画化された際(せんだみつお主演だったか)、劇場での客寄せ音声が、「こちら葛飾区亀有」まで続けて、「公園前派出所」としていたのを覚えている。
あれって「亀有公園」の前の派出所って事でしょ。だから「亀有公園前派出所」が主たる題名というワタクシの捉え方が合っていると今でも思うのだが。
あと思ったのが、「山止たつひこ」という初期の筆名ね。なんとも安易な名前だなあと。
漫画題と筆名と、共に安易な感じで、やっぱり最初の頃はさほどに面白くもなかったので、ちょっと斜に構えて読み始めたと思う。
『がきデカ』という、ここでも既述のギャグ漫画の一大転機となった漫画が正に大人気の最中の、作者名・山上たつひこをそのまま弄った名前なのだが、こんなに長く続くとは思わずに安易に付けたのではあるまいか。
最初の頃は、両津とか戸塚とか、およそ有り得ない警官の姿そのものをギャグの題材としていた。中川も、両津とは反対方向でのそういう存在だった。
それに上司の大原部長が、人の良い昔ながらの警官として突っ込み役で場を締めるという構造は、少なくともワタクシが読んでいる間は不変だった。
警官という存在を弄りの対象にするという事は、当時としては内部的には結構な勇気と決断を要したのではないかと思う。
下手をしたら雑誌社そのものが嫌がらせをされかねない。だから暫くの間は、絶対にアニメ化されない漫画と考えられていた。
それが年数の経つうちに下町ホノボノ路線もやるようになり、長期連載も有って世間的に認められ、両さんが親しまれるようになると共にテレビ化の障害も消えていった。
有り得ない警官という視点でギャグを構築していたのは本当に初期だけで、次第にそういう点に立脚しながらもギャグそのものが光り出してくる。
今でも「HITACHI」のロゴを見ると、「ハイタッチ」と読んで自分で笑ってしまう。
検索したら意外な程に多くの人間がその事に触れていて、驚いた。
あのあたりはもうギャグ全盛期で、毎回毎回、よく練られていた。
それだけ練られて、しかも画期的な笑いを含みながら、それまでのギャグ漫画と違い劇画調に描き込まれた絵で続けていたのも凄かった。
他のギャグ漫画家に比べて、原稿料が割安すぎなのではないかと他人事ながら心配した。
そんな描き込まれた絵で、気がついたら連載が十年を超えていた。
あの頃は今と違って休載なんて無いのが当たり前だったから、その事はまださほど凄いとは思ってなかったが、十年以上も続けてるという事に感慨を抱いた。
ジャンプの対象年齢低下に伴い、読める漫画が少なくなっていく中で、いつまでも寄り添って居てくれた。
やがてとうとう耐えられなくなり、ドラゴンボールが始まったばかりの頃に、ワタクシはジャンプの購読を止め、それがこち亀との別れともなった。
単行本は、二十何巻か三十数巻で買うのを止めていたかと思う。
それでも、時々まだ続いている事実を知り、段々と驚愕してくる。休載が無いのも、驚異となってくる。
『トイレット博士』のとりいかずよしも、いつまでも連載を続けようと編集側から持ちかけられていたらしいが、作者の意欲の方が先に萎えて単行本30巻の時点で終了となっていた。
たまに見るこち亀の最新刊が100巻だった時に、とうとうここまで来たかと思ったし、120、150と増えて行くに従い、これはもう、俺が死ぬまでに最終回は見られないかもなサザエさんと共に、などとも考えていた。
連載開始から見てきた人間だが、見なくなってからの方がかなり長い。
生きて最終回を見られる事に、些かの安堵も混じる。だが、やはり失望も大きい。
途中から見始めた人はどんな思いなのだろう。
最初から最後まで、一週も欠かさずに楽しみにし続けていた人はいるのだろうか。
もし、そんな人がいるのなら、とても羨ましい人だ。
自分が大好きな作品に、こんなに長く、休まず伴走してもらえるという事は、非常に稀有な事なのだから。
麻雀タイトル戦の競技規則はこれで良いのか
新潟記念
今回はあまりにも買いたい馬がバラけているので、かなり久々に枠連で一点買いしてみたのだが。
やはり駄目だねえ。
第一回麻雀プロ団体日本一決定戦 第二節
既に第二節も終了していたのだった。
どうも開催日程に規則性が無いものだからすぐ忘れてしまう。
RMUがただ一団体で500近いマイナス。
ここまで来ると、プロとアマの差くらいのものと見られてしまう。
つい先日書いた高橋球団みたいなものだな(笑)。
プロ雀連が一位を維持しているが、差は縮められてきている。
やはり老舗格のプロ雀連と最高位戦の水準は抜き出ていると見るべきなのか。
しかし、こんなものはまだまだ判ったものではない。
なんと言っても競技規則が、一発ウラドラ有りなのだから。
あー。こんな賞金総額一千万なんて大会でもこんな規則なのか。
麻雀が真の普及に至るまでの道のりは、まだまだ遠いと言わざるを得ない。
こんな規則での勝敗に、どれだけの説得力が出るのだろう。
ワタクシが個人的に注目していたのは、金子正輝だった。
ワタクシが麻雀に興味を持っていた頃からの、唯一の参加者と言って良いだろう。
彼はあの頃、とにかく他者を大きく抜き出た存在だった。
その彼がかなり下位で低迷しているというのは、年齢のせいなのかと思ってしまったが、ふと競技規則を見て愕然とした。
一発ウラドラ有り???
そんなのを賞金一千万かけた大会で採用するか!?
アカンわ、こら。一気に興味が減退した。
そんな大会、説得力の有る結果になるとは思えない。もし今期は良くても、回を重ねる毎にボロが出るはずである。
本来ならアルシャルでやれと言いたいが、せめて技量と関係無い一発ウラドラくらい無くしなさいよ。
仮にもプロの試合でしょ。
挿しす世相史「スタルヒン日本プロ野球初の通算300勝達成」
昭和30年9月4日(日)、トンボユニオンズのビクトル・スタルヒン投手が、日本プロ野球史上初となる通算300勝の偉業を達成しました。
トンボというのは昭和時代の人間ならすぐにピンと来る、トンボ鉛筆のトンボです。文具会社が球団名になっていたのでした。
このユニオンズ、そもそもは昭和29年に高橋ユニオンズとして始まりました。
高橋龍太郎という政財界の要人がオーナーだったから「高橋球団」という名称で、愛称がユニオンズだったのです。個人名が球団名というのも、珍しい例となっています。
パ・リーグが球団を増やす話となった時に、最初はアサヒビールに話が行ったのですが断られ、パ・リーグの中心人物である永田雅一が、元々ビール会社と縁の深い高橋に話を持って行って快諾されたものでした。
300勝間近で注目されていたスタルヒンも結成時から加入しており、二年目にトンボ球団所属となっての偉業達成でした。
350勝を目指すと、まだまだ意気盛んだった彼は、しかしながらその年の暮れに自由契約となり、最後の一花を再び読売でと持ちかけたのも断られ、明けた昭和31年に301勝での不本意な引退となりました。
その後、一時40勝扱いとされていた昭和14年の記録が元通りの42勝(現在も年間最多記録)に戻され、通算勝利も303となっています。つまり、本来の通算300勝はもっと早く達成されていたのでした。
現役引退からほぼ丁度一年となる昭和32年1月12日の22時40分頃、運転中の車が玉電(玉川電車)と衝突。胸や顔を強打して死亡しました。スピードの出し過ぎと見られています。
戦時中は「須田 博」名義にさせられたり、これだけの大投手なのに読売で全う出来ず、パ・リーグに転出してしかも高橋球団などという寄せ集めでその選手生涯を終えたりと、日本人に翻弄された人生でもありました。
生涯の師とも言えた藤本定義が、引退試合を鈴木龍二と企画していた矢先だったという事です。
*1:昭和30年9月5日付読売新聞