無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

続 「生前退位」に現れる知性の絶滅ぶり

 ワタクシは、現今の表舞台にいる連中は隅から隅までロクなものではないと踏んでいるから今更驚かないが、とうとう「生前退位」という言葉を使い通すのみならず、挙げ句の果てに正しいと推しだしている。

 たしかに言葉なんて表面だけ捉えれば所詮は道具なのだから、通じれば良いという考え方も出来るし、時に応じて変わっていくものだという事も確かだ。

 ワタクシの子供の頃では考えられなかった「生前葬」という言葉が広辞苑に載る世だから、「生前退位」も多くが認めれば定着するだろう。

 ワタクシは一生涯、絶対に使わないが。

  単に制度を表す言葉としてならさほど不謹慎でもなさそうだが、その場合でも「退位」で通じるわけだから、やはりおこの所業である。

 屁理屈を並べ立ててまで使いたい言葉ではない。

 

 子供の頃のワタクシは今以上に馬鹿であったから、平気で慎みの無い事を口にしていた。例えば或る有名人が死んだら大騒ぎになるだろうという事を。

 また、自分の祖父や祖母の死もよく口にした。それはそれを願ってではなくて、そういう話をしている両親が嫌だったから、敢えて極端な話をして、そういう話を止めようとさせてであるが。

 そういう、人の死にまつわる話をすると、母親が、「言い当てるって事が有るんだからやめなさい!」と窘めたものだ。

 現今の日本人には、きっとこの感覚は通じないのだろう。

 いや、ワタクシと同世代以上でも、平気で「生前退位」などと口にできる連中にも理解できないに違いない。子供時代のワタクシも大概な馬鹿だったが、それにも劣るという事かもしれない。

 ワタクシには、当時でも、なんとなくは通じたから。

 

 日本語には言霊が宿ると考えるという事が、ごく自然に浸透していたのだ。

 だから日本には、忌み言葉などという非常に非合理的な通念が、今でも無視できないくらいに残っていたりする。

 そんなものに合理的な根拠など無いのだし、面倒臭いだけなのだから、無くしてしまった方が楽である。万事を功利的に考えれば。

 「生前」なんて言葉を生きている人間に使ったら、昔の人間なら「縁起でもない」と注意したろう。

 そりゃ、いつの世でも誰でも誤ることは有るから、そうした表現は昔だって探せば幾らでも出てくるだろう。

 それで正当性が担保されるのなら、この世に道徳など有り得ないではないか。

 

 こういうちっぽけな騒動も有る。

 これだって根は似たような事で、今上天皇諡号(死後に贈る名)を与えてしまうような話となるので、「平成天皇」とはお呼びしない。これまでの日本の常識では。

 だが、今上天皇が「生前退位」のご意向を示されたと、なんの慎みも畏まりも無く言論が飛び交う世界になって、しかもそれで「正当」だという言葉が罷り通るのであるから、この問題だって同様である。

 以前にも書いたが、「平成天皇」と呼んだ方が「今上天皇」より誰にでも判り易いのだから、これからは合理的にその様にすべきだろう。

 昭和時代にも「昭和天皇」と書いている人物、書物は幾つも有るようだから、間違ってはいないはずである。表面的な事しかなぞる事ができない者には、まさしく「どうでもいいこと」なのだから。

 ワタクシは一生涯、(生前諡号は)絶対に使わないが。

 

 もっと言えば、敬語なんてもっと面倒臭いし、天皇と国民の間に垣根を作ってしまいかねないので、もっと気さくな言葉で表現すべきだ。

 カスゴミ共が「行幸」だの「巡幸」だのという言葉を用いなくなり、ワタクシが子供の頃は「浩宮さま」とか「礼宮さま」とかが普通の呼び名だったのに、今では「敬宮さま」とは呼ばずに「愛子さま」とのみ呼称するのも、きっと似たような目論見なのだろう。

 ワタクシが子供の頃は、教師に対しても「先生がいらっしゃった」という感じの言葉遣いをしないと、一応は咎められた。

 だが、やがてそういう言葉遣いは無くなり、教師への敬意も消えていった。

 先ずは形から入るという事だって、世の中には多いのだ。

 

 皇室への敬語を減らしているのは、ほぼ間違い無く日本人から皇室への敬意を少しずつ奪おうという非常に長期的な目論見を抱いた何者かがいるのであろうと、ワタクシは推察している。言ってしまえば、アメリカと左翼だが。

 だからカスゴミが「生前退位」などという言葉を使うことは、むしろ自然だと思っているが、自分達こそが尊皇とか思い込んでいる連中までが使い倒しているのには些かの違和感を感じただけである。

 だから一応はその違和感を書いただけで、使いたければ使えば良いのだ。

 却ってそれがお里を報せてくれるのだから。

 敬語もやめて、ざっくばらんに話せばいいんじゃないか。

 ワタクシはこれからも、拙いなりにもなんとか敬語を使わなければという葛藤にこそ意味を見出すし、そういう葛藤の末に間違った表現をする人を論う事は絶対にしないで行く。

 

 事故で加療中の人物がいたとして、例えば「もし助からなかったら死者は何十何名になります」などという報道をしたら、通常の日本人であれば言いようのない嫌悪感を抱くのではないかと思う。

 しかし、あくまでも事実経過の説明に過ぎず、それで伝わる事も有るのだから合理的とも言えるわけで、これからはこういう表現も咎めないことだ。

 「生前退位」という言葉を「正当」と糊塗した連中は。

 ワタクシは現今のカスゴミの性根は芯から滓で塵だと思っているから(東日本大震災で嫌と言うほど思い知った)、そこにオンブにダッコの連中も大同小異だと思っているので、その性根が腐っていても、もう驚きはしない。

 きっとカスゴミ様が押し通せば、そういう事も通るようになるよ。

 

 制度の話としてではなく、今上陛下の意向として「生前退位」と平気で表せるという事への違和感は、文法や表現的正確さの問題ではない。

 その者の中に「畏れ」が有るかどうかという、非常に根本的な問題を、実は孕んでいるのだ。

 その「畏れ」とは、単に天皇陛下への尊皇心云々の問題だけではなく、これまでの日本人が抱いてきた言霊への「畏れ」……

 いや、もっと言えば、何かわからないものへの畏れが有るのだという事を多くの人間は認識できていないが、認識できなくとも慎みが有る人は、そんな言葉は自然に避けているはずである。悪くとも、指摘された際に躊躇いなく改めているはずである。

 まあ、なんらかの意図が有ってやっているからこそ、躊躇いなく使い続けるのだろう。だから「お里が知れる」と言うのである。