無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

挿しす世相史「教育勅語発布」

 明治23年10月30日(木)、世に言う「教育勅語」が発布されました。

 本来、この連載は昭和戦後の話を連ねているのですが、時節柄、特にこの話題を扱おうと思います。

朕(ちん)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵(したが)ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是(かく)ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯(こ)ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラス朕爾臣民ト倶に拳々服膺シテ咸(みな)其徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ
  明治二十三年十月三十日
 御名御璽
広辞苑第六版より引用

 

 日本の学校制度に於ける修身・道徳教育は、これに始まったと言えますが、その中心に皇室を据えているため、戦後は廃止されました。

 しかし、そうした教育を受けた者の中には、その教え自体は間違っていないとして、かなり長いあいだ、復活を画策する政治家もいたものです。

 ワタクシの記憶では、昭和50年代始め頃までは、そうした事を公言する政治家がいたように思います。それで、よく野党から攻撃されてました。

 

 そもそも戦直後には、「新教育勅語」も画策されたのですが、頓挫しました。天皇・皇室の神格化に神経を尖らせるGHQとの画策が有った事は、想像に難くありません。

 そして昭和23年になると、「教育勅語」は憲法第九十八条に反するものとして失効の申し入れが衆院文教委員会によってなされ、更に各学校に保管されている勅語の回収が勧告されました。

 その内容につきましては、たしかに道徳的ではありましょうが、現代に復活させようというのは、さすがに非現実的と言わざるを得ないでしょう。

 

 拙いながら、以下に当方による冒頭部分の意訳を掲載します。

私、天皇は思うに、皇室の祖・天照大神神武天皇、更に歴代の天皇がこの日本という国を始めたのは、はるか昔の事で、その方々が築いた徳は、とても深く厚いものです。

  昨今、所謂女系継承派の人々が、「天皇をやっていただいている」などという言説を「尊皇心」という言葉にくるんで流布させていますが、とんでもなく皇室を愚弄した発言と言わざるを得ません。

 日本という国が世界でも特別なのは、その歴史が二千年から有るという事のみならず、国をお作りになった方の系譜が現代にまで連なっている事、更には、それが神話に連なっているという事が挙げられます。

 元々、日本という国は天皇が興した国なのです。そこを忘れる者は、忘恩の徒と言わざるを得ません。

 正常な店子は、「大家をやってもらっている」とは言わないでしょう。

 

 教育勅語はともかく、神話から直結した国、国柄・歴史を持つという事に、もう少し多くの日本人が自覚と誇りを持つべきとは思います。

 勿論、それが他国を蔑むような事に繋がってはいけない事は言うまでもありません。

 自国・自分に誇りを持つという事は、他国・他者の誇りを尊重するという事でもありましょう。