挿しす世相史「第二京浜トラック爆発事故」
昭和34年12月11日(金)、神奈川県子安台の第二京浜国道で、TNT火薬約4トンを積んだトラックが砂利運搬トラックと衝突して大爆発を起こし、死者4名、重症11名、272戸損壊という大惨事となりました。
「トラック二台は運転手もろとも吹きとび」と有るように、トラックは跡形も無くなり、現場には直径5m深さ70cmの大穴が空いて、近隣の家屋も二階建ての家が消し飛ぶなど、火薬の恐ろしさを当時の人々は思い知りました。
砂利トラックの運転手は、24時間ほとんど乗り続けで、5回目の往復の途中で対向車線にはみ出しており、速度もかなり出ていたものと思われます。
横浜市では、11月20日に東洋化工に於いてTNT火薬2トン等が爆発した惨事が有ったばかりであり、火薬に関する杜撰な管理、取り分け車載時のそれは問題となりました。
ところが、ちょうど一週間後の18日(金)に、東洋化工横浜工場へ向かう途中のTNT火薬積載トラックが、愛知県豊川市で名鉄急行と衝突するという事故が起きました。
この時は、事故の直後だけに梱包も万全だったため、爆発は免れたという事でした。
しかし、立て続けに起きる火薬事故に人々の恐怖は弥増し、当時は結構な話題となっております。
そして通産省(当時)は、大量の火薬運搬には船や鉄道を使うよう通達を出しました。