無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

麻雀回顧「花登筐(1)」

マイルチャンピオンシップ

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 まるであきまへん。

 先週と違って、何が来てもおかしくないというか、どれも来そうな感じがしてしまった。それでも資金に限りは有るから15番を外してしまうし。

 そういう時は、むしろ徹底的に絞って出費を抑えるようにした方がいいな。

 それはもう悟っていたのに、つい、先週勝ったから少し余裕を持ってしまった。

 

 

麻雀回顧「花登筐」

  漫画家である福地泡介が、至難とされた名人位防衛を果たした事は、決して小さくない麻雀界の事件だった。

 そして、その福地名人の三連覇の偉業を、たった700点差で阻止したのが、また「アマチュア」である花登筐であったのも、麻雀界にとっては少なからぬ衝撃だった。

 しかも、こと麻雀という事に関しては、ほとんど麻雀マスコミの話題になった事の無かった花登が、いきなり登場しての快挙であったから余計である。

 

 五味康祐阿佐田哲也という、黎明期の麻雀マスコミを先導した二人の高名も有って、それまでも作家に雀豪が多いという事は度々喧伝されていたのだが、花登筐の名はそれらに挙げられた事が無かったと思う。

 無論、作家と言っても花登は放送作家、脚本家の部類であるから、文壇とは人間関係が重なっていなかったのだろう。

 また、超人的に多忙でありつづけた男だから、そういう場に出る機会も、そうそう無かったのに違いない。

 

 そんな花登が、正に彗星のように麻雀界に現れて、いきなり第八期名人となったのも衝撃だったが、更に翌年、アッサリと連覇してしまったのは、更なる衝撃を以て麻雀界に報じられた。

 しかも、連覇の際の牌譜が鮮やかだった事も有り、畑正憲が好敵手として惚れ込んでしまった。

 関西ブーマージャン仕込みの、急所での鳴きがハマった牌譜は、それまでの誌上麻雀の打ち手に、あまり類例の無い個性的なものだった。

 鳴きにより必要牌を大量に喰い入れる手法は小池一夫を彷彿とさせるともされたが、小池は一色志向の強い殿様麻雀であったのに対し、花登のそれは、緩急自在だった。

 

 花登筐は、テレビ草創期の昭和30年代前半から、既に超々売れっ子作家だった。

 『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』『頓馬天狗』を同時に三局で担当して文字通りに一世を風靡し、それまで関東では通じなかった関西喜劇が関東でも大人気となっていった。

 喜劇に飽きが来て一般ドラマを書き出せば、それも『船場』『細うで繁盛記』『どてらい男』『あかんたれ』と、次々と世を騒がす大当たりとなった。

 テレビにとどまらず、舞台でも縦横無尽に活動した。

 

 従って、売れっ子になった昭和30年代以来は常に超多忙であった彼だったが、名人を防衛した事により、にわかに麻雀界の視線も熱くなった。

 殊に誰よりも牌譜研究を怠らなかった畑正憲が、花登に熱い視線を送った。

 そして、徹底的に打ち合いたいという畑の希望を商売に結びつけた月刊近代麻雀が、「畑・花登100番勝負」という企画を打ち出した。

 その告知を見た時、ワタクシは、あんな多忙な人が麻雀を百番も打てるのか? 最高位戦の阿佐田哲也すら出来なかったのに、と危惧した。

 

 勿論、勝負そのものは非常に楽しみにしていたのだが、或る時、最終ページに、畑・花登百番勝負は取り止めになったという編集部のお詫びが載った。

 ほら見ろ、出来もしない事をあんな大々的に告知するんじゃないよ、と思ったものだ。

 ところが後年、当時の近代麻雀編集長・岡田和裕の著書を読んで、ワタクシは驚いた。

 なんと、第一回の対戦は、花登邸で実際に行われたというのだ。

 

 ところが、その第一回の対戦で、体調が万全でなかったのか花登はまったく勝てず、なんと畑の9勝1敗という一方的な結果となってしまったというのだ。

 途中からあからさまに機嫌が悪くなった花登は、最後の十戦が終わるや何も言わず奥に引っ込んでしまったのだという。

 その結果も衝撃的だが、ワタクシには、花登のその態度も衝撃だった。

 名人連覇で麻雀界からも注目された花登は、月刊プロ麻雀にエッセイの連載を持っていた。そこに書かれていた彼の姿勢から乖離した、大人げないその態度にワタクシは失望してしまった。

 当然、その後の編集部からの督促にも応じず、企画は沙汰止みとなってしまったというのであった。