無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

川内原発は一刻も早く停止すべきなのか

 熊本の震災にお見舞い申し上げます。

 当家では母親が大分の出身であり、叔父や叔母にも大分在住の者が居るので、大丈夫だとは思ったが一応電話をして確認してみた。

 案の定、それなりに揺れはしたらしいが、被災という程のものではなかったようで一安心。だが、今の我が父母が住む団地の隣の住民が、旦那の生家が熊本だったという。

 その旦那は昨年に亡くなったらしいが、奥さんが旦那の生家に連絡したところ、義理の兄弟の家が二軒ばかり潰れてしまったようだ。

 わりと身近な所に悲劇は有ったが、命が助かったから良しとすべきなのか。ワタクシだったら、家が潰れて貴重な品々が失われてしまったら、生きていく気力も削がれてしまうが。

 

 ワタクシがこの震災を知ってまず思ったのは、「川内原発!」という事だった。

 見ろ、あんなとこ無理矢理運転再開するから災いを呼び寄せたのだと思っていたら、一向に運転停止しないのでなんじゃこりゃと。

 だが、よく考えてみたら停止などしようがしまいが、同じ事なのだ。

 何故ならば、仮に停止したところで、破局が生じればメルトダウンはするのだ。この辺は福島でも現実となったし、かの震災直後の余所に有る当ブログでも書いた事が有る。

 だから反原発の人間が力説すべきなのは停止よりもむしろ、一刻も早い廃炉なのだ。

 現実問題として、廃炉というのはかなり困難な作業である。しかしだからこそ、一刻も早く軌道に乗せないとならない。福島のように事故が起こってからでは、半永久的に廃炉が出来なくなる危険性も出るから。

 

 つくづく、こんなものを推進した連中は消えない罪を日本国に対して背負っていると思う。だが、今更それを責めても詮無い。

 しかし、これからの廃炉を急がない連中の罪は、指摘し続けなければならない。

 とは言え、ワタクシも以前に書いたように、現実問題として早急な廃炉は難しく、停止させたところで破局が生じれば結果は同じで、しかも運転停止させれば人員・費用などで、保安上の危険性は高まるのかもしれない。だから日本国政府が執るべき姿勢は、その時にワタクシが指摘したものしか無いと思うのだ。

 それは、「全ての原発は可及的速やかに順次廃炉を基本方針とする。但し現在の技術では相当な時間が掛かるので、その間はやむを得ず運転を続ける。運転を停止しても破局が完全否定できない事は福島で実証されており、現実との摺り合わせでこういう施策にせざるを得ない点をご理解戴きたい」と表明する事である。

 もしこれが出来れば、当座の原発運転に或る程度の理解を示せる層は増えるだろう。

 

 だが日本という国の施政者は、徹底的に民衆に事実を隠そうとする。

 端的に言えば、民主主義が体得できていない。政治家も、官僚も。

 上記の例で言えば、まず「運転停止しても破局は生じてしまう」という点を認めたくない。だからワタクシに言わせれば労力の無駄遣いに思える「運転停止要求」がいつまでも止まない。

 勿論、運転停止による利点は多い。しかし、それと、「停止による不安要因の増加とを天秤にかけたらどうなのか」の検証も、為政者は提示できない。しない。

 とにかく黙って事態を進めてしまえば、既成事実化の後は日本人はあまり騒がないという性質を悪用し、TPPでもパナマ文書でもなんでも、情報は途中では充分に開示されない。

 どうでも良いテレビの事などでは「国民の知る権利ガー」とか「報道の自由ガー」と喧しかった連中も、本当に行われるべきこうした事実報道は、共同通信だの外国報道だのの後追いするばかりで、とてもお題目からはかけ離れた姿勢にしかお見受けできない。

 

 ワタクシには、東北の悲劇を経て尚こうした現状の日本に対する天の怒りの警告とも受け取れる九州群発地震だが、天ならぬ人の我が身には出来る事など殆ど有りはせず、ただただ嘆くばかりである。

 しかし、「訴えるべきなのは『運転停止』ではなく『可及的速やかな廃炉」なのだという事は、現時点を生きる一人の日本人の責務として、無駄を承知で記し続けたいと思う。