昭和唱和ショー「うたごえ喫茶」
Gさん(仮名)「うたごえ喫茶ですか。昭和30年代以降の生まれには縁が薄いものですね」
ごいんきょ「それより前の世代でも、実際に行って歌ってたって人は限られてくるだろうけどな」
G「これって、その名の通り、歌を歌う喫茶店ですね」
ご「うん。殆ど東京の文化なんだろうけど。要は、まだ娯楽も少なかったし、勿論カラオケも無かったからな。今で言えばカラオケハウスみたいな物だと考えると理解が早いだろう」
G「それだけ歌う事が好きな人が多いんですね。でも違いは、自分が好きな歌を歌えないですよね」
ご「ああ。そこが”連帯”の時代って言うかな。みんなと繋がるという事の方が大事だったんだな。それに何度も言っているが、当時は田舎から東京へと就職に来る中卒の子なんかが多かったから、人と繋がれる場というのはとても需要が有ったんだろう。
そこにつけ込んだのが創価学会を始めとする新興宗教だった事は以前も言ったが、この”うたごえ喫茶”を盛り立てた”うたごえ運動”の方は、共産党が引っ張っていたんだ」
G「へ? うたごえ喫茶を盛り上げてたのは共産党員だったんですか?」
ご「事実上な。勿論、お客さんは素人さんもいたろうよ。と言うか、そういう素人さんと共産主義・ソ連を如何に近づけるかというところから生まれた運動だろうから」
G「う~ん… 少し幻滅しましたねえ」
ご「ただ、”うたごえ運動”そのものが直接的に共産主義への”折伏”に利用されたというものでもなさそうだけどな。元々は”深夜喫茶”というのが若者にウケていて、それが風紀を乱すって問題になったんだけど、そちらが規制された後に“歌声喫茶”が出て来て、喫煙する高校生とかが屯したりと、やはり大人は警戒していたんだな」
G「その昔は喫茶店そのものが、まともな高校生とかは寄らない所でしたでしょうね」
ご「そんな所から少しずつ人気が出て来たのが昭和30年。
で、背後に共産党の影が有るという事は最初から知られていて、だからアメリカ様のお先棒担ぎだった読売新聞は、何度か警告を発する記事を書いている」
G「正力松太郎氏はアメリカの代理人的存在のようでしたしね」
ご「昭和30年8月には、ダン道子、鍋山貞親、藤田たき、沖不可止と4人も並べて警戒の言葉を書かせてる。表向きには否定できない運動なものだから、あくまでも遠回しにって感じだけど、流石に鍋山貞親なんかはハッキリと共産党の名前を出して警戒させてるな(笑)」
G「だから、うたごえ喫茶から出て来た歌にロシア民謡が多かったんですね」
ご「ああ。でも、文化的に相手の国と親睦を図るという事は大いに結構な事なんで、そこが対処の難しかったとこなんだな(笑)。ま、そういうやり方を使った上手さとも言える。実際、労働歌とか闘争歌なんてのも歌われていたんだ」
G「ふーん。でも、やはり後々まで残るような歌は、そんな偏りの感じられないものばかりですね」
ご「読売はその後も、芥川也寸志が”うたごえ運動”に対する注文を書いたりしているけどな。
で、12月20日に、うたごえ運動の指導者だった関鑑子が、ソ連からスターリン平和賞を贈られている」
G「へ? 孔子平和賞ではなくて?(笑)」
ご「あれはソ連の真似だったのかもな(笑)。
ま、発端はどうあれ、日本人にコーラスが根付いていった事は芸術的には意義も有ったよ。
昭和30年代後半になると、ダーク・ダックスの『みんなで歌おう』とか、うたごえ喫茶の雰囲気がテレビの中でも見られるようになっていった。今、会場と出演者の全員が声を合わせて歌い続けるなんて番組は有り得ないだろう」
G「うたごえ運動は、いつ頃まで続いたんでしょう」
ご「昭和40年代に入ると、急速に衰えたな。だから、正味10年か。
尤も、『みんなで歌おう』という番組は根強い人気が有ったから、昭和40年代後半にも江利チエミとかが司会で復活しているけど。そして、木枯らし紋次郎が”あっしには関わりのねえこって”なんて言い出した世相になって、日本は個人主義の暴走時代の扉を開ける事になり、合唱が広く扱われるという機会は無くなっていくのさ」
G「その後のカラオケブームが有りますよ」
ご「カラオケは狭い部屋の中で特定の数人が歌うもので、”連帯”ではない。しかも、その中ですら勝手に一人で歌っていて、誰も聞いてないじゃないか(笑)」
G「確かに(苦笑)」
*1:昭和40年1月1日付読売新聞