無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

昭和唱和ショー「銭湯」

 銭湯は今でも有る事は有りますが、ワタクシが子供の頃から考えると、見る影も無いと言って良いかと思います。

 なにしろワタクシの小学校時代、同じ組に銭湯の子供がおりましたが、彼がパーマ屋の倅を「風呂屋は儲かる。パーマ屋は儲からない」とからかっていたくらい、風呂屋は常にほぼ満員でした。

 先生は、「お風呂屋さんは一人が払うお金は少ないけど、パーマ屋さんは一人のお客さんがたくさん払うでしょ」なんて説明しておりましたが。

 当時、たしか子供一人20円だったかと思いますが、それでも、確かに風呂屋は儲かってるだろうなあという感じでした。

 今では「銭湯」という字をいきなり読める人も少なくなっていそうです。

 

 なぜ銭湯が主流だったかというと、東京ですら、昭和30年代半ばに『水道完備ガス見込』なんていう人気ドラマが有ったほど、都市ガスというのは当たり前ではなかったからです。

 田舎では、以前も書きました五右衛門風呂が有りまして、それは薪で湧かしていたんですね。昭和40年代まではそういう家が有ったと思います。

 それより新しいものですと、灯油で湧かす風呂というのも田舎では多かったようです。これは都市ガスが無い地方では今でも使っているでしょう。

 

 ワタクシの子供時代の東京は、流石に都市ガスは完備されていたものの、アパートなどには風呂が無いのが当たり前で、みんな銭湯に行っていたのです。

 持ち家の子(即ち元からの住人かお金持ちですが)は、わざわざ銭湯に行かなくていいというのは羨ましかったです。

 昭和40年代後半に入るとバスクリンという入浴剤をテレビでよく見るようになって、あんな色の着いた風呂に家で入れるなんてと、これも無性に羨ましかったものでした。

 今でこそ銭湯業では色の着いた湯など珍しくないでしょうが、当時は特別な日でもない限り、色付きの湯になんてしてませんでした。

 

 ただ銭湯にも楽しみは有って、よく言われる事ですが、湯上がりのコーヒー牛乳やパイゲンCは楽しみでした。勿論、毎回飲めるというわけではありませんでしたが。

 ワタクシの子供時代とは明治乳業も提供していた仮面ライダー時代ですから、パイゲンCのキャップ裏に刻印が有ると、なんか凸凹した部分の有るライダー関係のワッペンが貰えるというのも有って、一際楽しみだったものです。

 牛乳類はコーヒー牛乳、時にはフルーツ牛乳などがお楽しみでした。

 そんなお楽しみだった牛乳類ですが、なんと!

 昭和30年代は認められていなかったらしいのです。

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 都の衛生局が挙げた禁止理由は、

  1. 物品販売のため外来者が出入りする事は風紀上許せない。
  2. 番台の監視にも隙が出る。
  3. 清潔を義務づけられている浴場内に空き瓶を持ち込む事は衛生上問題が有り、子供の怪我の元にもなる。

 というものでした。

 しかし、どれもこじつけという感じで、実際にワタクシの子供時代である昭和40年代半ばには、既にどこでも当たり前に牛乳類販売の冷蔵庫を置いてありましたね。

 どうも昭和20年代から30年代に、お風呂屋さんは値上げに関してお上としばしば揉めていたようで、それで嫌がらせされていたのではないかと思うのですが。

 

 銭湯の外に出ると、たまに屋台が居る事が有り、それも非常に楽しみでした。

 ワタクシが特に楽しみだったのはタコ焼き屋台で、15個で100円とかそのくらいだったかと思います。

 昭和50年代前半までタコ焼きは非常に買いやすい値段だったのですが、或る頃、グンと割高感が増して縁遠くなってしまいました。蛸の値段が上がったのでしょうか。

 石焼藷もですね。こちらはもう少し早く高くなりまして、オイルショックの頃に燃料の関係でグンと上がったように記憶しています。

 冬場のおでんを見繕うのも大きな楽しみでした。ワタクシはボールとウインナーが当時は好きでしたね。

*1:昭和37年10月12日付読売新聞