無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

皐月賞

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皐月賞

 もう、かなりの期間毎週爆死報告が続いていたし、自分でもそろそろ嫌気が差してきたし、特に先週は複勝とはいえ5000円以上の勝ちを取り逃してしまうしで、ほとほとめげており、今週は取り敢えずトントンでも良いので堅く抑えも入れて、何よりも取り敢えず当てることを優先して臨んだのでありました。

 だから3強での三連複を300円は、いつもなら絶対に買わない目。だって、仮に当たっても千円ちょっとで、本当に意味が無いから。しかし今回は、トントンでもなんでも当てに行くために、仕方無く抑えておいた。

 で、最も重視していた18番ディーマジェスティーが、まさかの勝利。さすがにそこまでは考えていなかったのだが、お陰をもちまして久々の勝ち越しとなった。

 いやあ、これで一息つける。ちなみに受付番号1の方は、いつも通り同僚の注文分。そちらは残念でした。

 

パチンコ回顧

 パチンコに革命をもたらしたフィーバー初号機。その革命とは、素人にも打ち止めが出来るという事に他ならなかった。

 打ち出しの完全自動化、そして大当たりのデジタル制御により、パチンコは素人に大きく門戸を開き、反面、昔ながらの技術で食べていたプロは住処を徐々に失って行った。

 ただ、フィーバー初号機はパンクという恐怖が有った。ワタクシは(あまりやらなかったし)とうとう初号機で大当たりを引けなかったのだが、その失敗談は度々耳にした。

 打ち止めの球数は店によって違い、3000発から5000発だった。大きな所では10000発くらいの目玉企画をやっていたようにも思うが、ワタクシの行くような普通の街中の小さな店では5000発でも多かった。

 

 小さな店と書いたが、昭和の頃のパチンコ屋というのは、非常にこぢんまりとしたものだった。台数としては100台そこらだったろう。そのくらいの間口が二階建てとかの店が、当時の大型店だった。

 台間サンドと言って、座ったままで玉を借りられるようになったのも、フィーバー登場の頃だったかな。ファン層が増えたので、色々と設備も充実していったように思う。

 それまでは受付のお姉さん(店によってはおばさん)に百円単位でお金を払い、そこにある玉貸し機で玉を借り、自分の台まで持って行っていた。一発2円だったから(その前は1円)、100円で50発も借りられたので、手打ち台なら2、300円も借りれば結構遊べた。

 

 フィーバーのパンクは悲惨だった。

 なにしろ大当たりまでのハードルが半端でなく高い。異常人気となっていたから、今考えると釘なんて極悪非道のかっちめぶりだった。それでも常に満席だったのだから、店はフィーバー様様だったろう。まさしく名の通りにフィーバー状態だった。

 そうして大枚はたいてようやく大当たりになっても、酷い店になるとアタッカー周りの釘まで極悪で、よくパンクしていた。と言うより、完走して一気に打ち止めというのは幸運くらいになった。

 パンク、即ちVゾーンに玉が収まらないまま30秒が過ぎてしまうことだが、店が出玉を減らすためにアタッカー周りの釘を悪くしていると、アタッカーに玉が入りづらくなり、パンク確率も上がってしまうのだ。

 とにかく、それまでパチンコ屋にあまり来ないような層まで巻き込んでの流行りだったので、店側はいいように稼いでいた。

 

 更に翌年、フィーバーと共に現在までのパチンコの基本形となっている、ゼロタイガーが登場する。いわゆる羽根物である。