昭和唱和ショー「酒屋」
庇護されていた業界
酒屋と書いて「さかや」と読みます。そんな説明も段々と必要になってくるかもしれないくらい、街中の酒小売業が減りました。
大きな要因は、例によってのアメリカゴリ押し大店法によって大型店が増えたこと、更には、そうした大型店やコンビニなどにも販売免許が渡るようになった事でしょう。
そう。酒類販売には、特別な免許が必要で、これは国税庁の管轄になります。
どうして免許制なのかというと、酒税が貴重な税源の一つだからです。そのため、業界が共倒れになったりしないよう、保護の目的も有って免許制となっているのです。
今では申請資格もかなり緩和されている感じですが、昭和時代には、これは結構な難関で、事実上新規参入が不可能な業界でした。
そのため、昭和のコンビニには酒を売っている所は非常に少なく、たまに有る酒も売っているコンビニは重宝したものです。ああした店は、ほぼ間違い無く酒屋さんが商売替えしたものだったのでしょう。
どのくらい厳しい免許だったかというと、まず酒の製造販売の経験者、酒店の従業員・団体役員の経験と酒の知識、記帳事務能力が必要とされました。その上、販売見込石数(こくすうというのも死語)が何石何円以上、立地も既存業者と50m以上離れていること等の条件が有りました。*2
こうした業界の特殊さに世間の目が厳しくなったのは、昭和43年にビール業界が値上げしようとした際に、経済企画庁が反対の念を表明したあたりから目立ってきます。
この時、経企庁の懸念表明を受けても、ビール業界は構わず値上げに踏み切りました。切羽詰まっていたからという訳でもなくて、おそらく背後に、国税庁の後ろ盾が有ったからでしょう。経企庁対国税庁という、ちょっと変梃な激突状況が生じていたのです。
国税庁は長年の上記のような免許関係により、関連業者と「親密な関係」にあったものと想像されます。かてて加えて、自分達の縄張りに余所の役所が首を突っ込むなという、いかにも日本官僚的な意識が働いたことは想像に難くありません。
時の佐藤栄作総理が放った「ビールの値上げをなんとか押さえよ」という鶴の一声も簡単に無視され、新聞紙上などで自由免許を訴える論調が出て来たりしました。*3
酒屋の量り売り
上の図は、酒屋でのコップ売りが復活した際の一コマです。
ワタクシが子供の頃までは、やや大きめの酒屋さんの一角に立ち飲みできる区切りが有ったりしました。
その頃はなんでもバラに買えたもので、卵も一個ずつ売ってましたし、味噌も山型の蓋をした独特の容器に入れられ、そこから必要とされる量だけ掬い取って売ったりしていたものです。
酒屋の立ち飲みコップ酒も、このような量り売りの範疇でした。
上記の時に復活したというのは、昭和16年に戦争のため統制されたからで、9年ぶりに復活したという報せです。
この時は酒の売れ行きが不振だったために、これまた国税庁が考えた打開策だったようです。ところが、これに料飲業界、つまり飲み屋さんですね、その横槍が入ったりして、なかなか認可されなかったのがようやくという事でした。
その様な経緯が有るので、この酒屋でのコップ酒には様々な規定が有りました。
飲み屋さん側の後ろ盾である取り締まり方面では、椅子を出したりお燗をつけたりしたら料飲と見なすというお触れを出したので、酒屋さんで飲めるのは、あくまでも売っているお酒をそのまま注いで出したものだけで、しかも立ち飲みに限定されました。
これは先に書いたように、あくまでもお酒の量り売りなのだという建前が通されたのです。
当の国税庁は、次のような見解を述べました。曰く「コップ酒は飲むために売るのではなく、あくまでも量り売りです。売ったあと飲まれるのはご随意ですがね」。
なんだか吉原方面あたりへの建前に近いものが有りますね。「あそこの客はみんな入浴しに行くのです。お風呂に入りながら、恋愛に発展するのはご随意ですがね」みたいな。
いかにも日本のお役所的物言いですが、こういう裁量の広さは悪くない部分です。
そして消えていった町の酒屋
こうして色々と庇護されてきた業界でしたが、平成に入ると一気に不安定要因が増大してきます。大店法による量販店の登場、コンビニの増加などで、一個の個人商店が張り合うのは難しい情勢となっていきました。
そんな中で販売免許の需要が増し、経営に自信を無くした個人商店が、そうした量販店やコンビニに免許を売っていったのです。
ワタクシの以前の同僚にも、そうした酒屋上がりがいました。なんでも何千万円だかで売れたという話でした。
外国も含めて世間の風当たりが強まり、守るべき業者も減り、このようにして、かつては国税庁まで乗り出して規制されていた酒の安売りも、今日ではごく日常の光景となっています。