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無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

特別昭和テレビ特別寄稿「永六輔を通してテレビの黄金時代を振り返る」

 今日は本来なら、先の日曜に行ったウルトラマン50周年の催しを報告する予定でしたが、昭和テレビの巨人逝くという事で、昭和テレビ特別寄稿は本来なら明日なのですが、明日は通常の寄稿をしたいというのも有り、本日、特別特別寄稿とします。何を言っているのかサッパリわからないでしょうが。

 こういう寄稿は酒ブログ時代に野坂昭如師の逝去の際に書いたのが初めてですが、野坂師は我が勝手師匠の一人だったのでその気になったものの、永六輔氏は個人的には取り立てて入れ込んでいる訳ではありません。

 しかし、永氏を振り返る特集は全マスコミで数多く有るとしても、ワタクシならではの観点で書くような所はまず無いでしょうから、それなりに意義も有るだろうという事です。

 

 という事で、どこでも書くような生い立ちだのの情報は全て省きます。

 永氏は高校時代に冗談音楽の三木鶏郎のトリローグループに属し、六輔という筆名はその時以来というのも有名な話でしょう。

 氏は昭和30年頃という本当に黎明期からテレビにも作家として関わるようになり、最初の頃は日本テレビを中心として活動して、『新婚求婚』というドラマを若手三人の回り持ちで請け負ったりしておりました。

 

 そんな彼が世間的に注目されたのは、昭和34年の第一回レコード大賞受賞曲「黒い花びら」の作詞家としてでした。作曲は、生涯の相棒とも言えた中村八大、歌唱は水原弘でした。

 まだレコード大賞など全く注目されない頃とは言え、聞いた事の無い若造が大賞の作詞をしたという事で、かなり注目を浴びています。

 その年の売り上げ第一位は、実はペギー葉山の「南国土佐を後にして」だったという話です。第一回から既に、レコード大賞は必ずしもレコード売り上げで決まるものではありませんでした。

 二位の「黒い花びら」の売り上げ数は、16万枚だったといいます。*1

 この枚数が、世を騒がした「ベストセラー」だったのです。

 まだまだレコードを買って聴くということは、趣味人か富裕層の楽しみでした。

 

 「黒い花びら」は、彼と八大とがカンヅメにされて一晩で出来た二十数曲のうちの一つにすぎないと、彼は自作の大賞曲を扱き下ろしました。どだい、あんなものがウケたのがおかしい、本当はもっと明るいのをやりたいとも公言しました。

 こんなものが受けるなんて世の中どうかしているとまで嘆いていたのです。

 先輩格の中村八大の立場を考えない言動ですが、若くして頂点に立ったという事で、少々気負っていた部分が有るのでしょう。

 当初、作詞代はわずか三千円だったと伝えられますが、その後、これは印税制にして貰えたようです。

 

 彼は日本のバラエティ番組の雛形と言える、『光子の窓』の仕事もしており、昭和35年5月8日放送の栄えある三周年記念番組の構成を担当しています。

 ところがこの直後、アメリカのアイゼンハワー大統領(当時)来日予定が近づくにつれ激動化していく安保闘争に、若き日の彼も積極的に関わっていく事となります。

 プロデューサーの井原高忠が、安保と番組とどっちが大事なんだと怒ったら、「安保だ」と言って6月12日放送の番組をほっぽらかし、降板させられてしまったのは有名な話です。

 自分が関わらなくなった『光子の窓』の放送を見ながら、「オチない……」と嘆いていたといいますから、あの番組と関われなくなった事、井原高忠にフラレた事は、若き彼にとってそれなりに落ち込む事だったのでしょう。

 

 しかし捨てる神あれば拾う神ありで、NHKの末盛憲彦というディレクターが、昭和34年から、彼に『午後のおしゃべり』という番組を任せていました。

 Dが末盛、作家が六輔、ピアノ弾くのは中村八大。踊りはレ・パンテールで司会に中島弘子となったら、少しテレビに詳しい人、当時の事をよく覚えている人なら、それって『夢であいましょう』の事だろうと思うでしょう。

 そうです。この『午後のおしゃべり』こそが、『夢であいましょう』の前身番組だったのでした。

 火曜の昼1時40分から2時まで、こんな番組が放送されていたのですから、テレビも潤沢な時代でした。

 この番組は、昼間という事もあって『夢で~』よりは政治的な話も盛り込んだりしており、驚く事に、キネコが数本残っているというのです。NHKには、是非ともこの機会に放送して戴きたいものです。

 

 日本のバラエティの祖とも呼ぶべき井原高忠・『光子の窓』から彼がNHKに流れ、そして井原高忠に彼が切られた時、末盛が彼を拾い上げ、『午後のおしゃべり』を土曜夜の十時に持ってきて、『夢であいましょう』として任せるのです。

 これにより、井原がアメリカに学んだバラエティ番組は、NHKにも受け継がれていったのでした。

 今日、「バラエティ番組」というとゲラゲラ笑い転げる番組という誤った認識を、当のテレビ関係者も持っているでしょうが、そもそもはバラエティに富んだ内容だから「バラエティ番組」と呼んでいたのです。

 笑いは構成要素の一つに過ぎず、歌あり、踊りあり、劇あり、時にはマジックが有ったり、そういう大人の楽しめるショータイムこそが「バラエティ番組」であって、子供にしか(にも?)通じない底の浅い番種の事ではありませんでした。

 つまり、現今の日本のテレビからは絶滅した番種と言えるかと思います。井原高忠や彼がテレビ番組の制作から離れていったのは、そういう番組制作が叶わなくなっていたからなのでしょう。

 

 『光子の窓』終了後、日本テレビの方では、かの井原高忠の下から秋本近史というディレクターが出て『シャボン玉ホリデー』を、『夢で~』とほぼ同じ頃に始めます。 

 しかも奇妙な符合として、この『シャボン玉ホリデー』にも『魅惑の宵』という前身番組が存在し、そちらが始まったのは、『夢で~』の前身である『午後のおしゃべり』と同じ昭和34年だったのでした。

 つまり、『夢で~』と『シャボン玉~』は、どちらも井原高忠の下でバラエティ構成を鍛えられた人間がNHKと日テレとで昭和34年に前身番組を始め、共に昭和36年に、日本のテレビ史上に残るバラエティ番組として脱皮していたのでした。

 NHKと日本テレビは、テレビの盟主の座を懸けて、昭和時代にはかなり張り合っていたのですが、それが番組内容の張り合いとして結実していた良い部分の一例が、両番組だったと言えましょう。

 正にテレビの最も幸せだった時代であり、視聴者の最も幸せだった時代とも言えましょう。

 

*1:昭和35年1月6日付読売新聞

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