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無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

小林よしのりと長谷川豊という左右二大お利口さん

社会 不理意投句

 という題を付けるのは簡単なのだけれど、本文を書くのが億劫だ。

 なにしろ二人とも、特に長谷川は、とこしえにお利口なので、指弾していたらキリが無いというのが有る。と言うか、あの書き方を見る限り、お利口と言うよりは紙一重の方なのだろうと確信した。

 小林の方はただの世間知らずというか、要するにそういう意味でお利口なのだ。

 両者に共通している事は、無知の知が無いという事。これ即ち、非常に判りやすいお利口の特徴である。

 

 長谷川はそういう意味で全般的に、完璧に、完全無欠なるお利口さんなのだが、小林の方は全てに於いてお利口というわけではない。彼がそのお利口ぶりを最も端的に発揮しているのは、やはりマスメディア、特にテレビに関してだろう。

都議会の傍聴に出かけて行ってヤジ飛ばしていた奴とか、舛添の辞任が決まってもなお、テレビの街頭インタビューで「もっと早く辞めるべきだった」だのと責めていた奴など、完全なバカであり、全くの愚民である。

 

 彼は以前から、安倍叩きは散々囃し立て、テレビにも火を付けて回っていたはずだが、今度は舛添にそれをやると、途端に火消しの方に回ってお利口ぶりをひけらかす。

 東京都知事も条例を振るえる権力者なのだが?

 政治家を追求したらイジメというのなら、もう政治家に倫理的な事を要求するのはやめよと主張すべきだ。

 何が言いたくて何をやりたいのかがサッパリ判らない。ネットを始めてからの小林は、ただ単に世間を煽っているだけの無責任な言動ばかりだ。

 

 ちなみにワタクシは、小泉純一郎を叩いていた頃から確固とした主張が有って、日本国・日本人を優先的に考える政治家・官僚が億単位の金を握っても、金を握るのはいいけど有効に使えよという目で見るべきだと思っている。

 これを2ちゃんで書いていたら、事も有ろうに左翼の方がこれを取り入れて、佐高信だの吉田照美だのが売国奴小沢一郎の不祥事の時に露骨に擁護しやがった。

 特に佐高は、ワタクシの言い分そのままに庇っていたのが可笑しかったというか救いようが無いというか。

 

 さて、今回の舛添叩きは、要するにテレビ報道の問題に集約されるのだ。

 週刊誌は週一回の発売で、扱われる記事も10ページも無い。新聞だって毎日毎日細かい事まで報道するわけでもない。

 ところがテレビは、毎日どころか数時間単位で新たな興味を掘り起こしていかねば商売にならない。と、現今の連中は思っている。

 そこで次から次と情報を漁らねばならず、政治家追求としてはくだらない問題はおろか、家族まで執拗に追いかけ回すような、一種のリンチ状態となってしまう。

 テレビが経費節減のため、朝から晩まで下世話なワイドショーもどきを流しているから、こういう事になるのだ。

 だ~~~れも、この事を指摘しない。できない。気付かない。

 

 その昔はテレビも「報道」の方に誇りが有ったから、ワイドショーと言えども下世話な視点で政治家を扱うという事は無かった。「芸能」も「報道」の目を意識していた。

 それが日本テレビの『ズームイン朝!』あたりから「報道」と「娯楽」の境界が内部的に取り払われ始め、平成になってからはほぼ完璧に、テレビ報道は死んだと言って良い。

 小林はテレビの歴史に関して無知の知が無いから、平気で噴飯物の事を殴り書きし続けているけれども、現今のテレビに「報道」の矜持なんて無い。有るという者は認知能力に問題が有るか、目を逸らしているだけだ。

 テレビニュースがつまらなくなったなんて嘆いているが、元々ニュースなんてものはつまらないもので、子供などが興味を持つものではなかったのだ。それは新聞は勿論、テレビでも同じだった。

 

 小林は良くも悪くも子供の感性を持っているから、ニュースがつまらないと見る気が無くなるのだろうが、昭和時代のニュースは、みんな無色であろうとしていたものだ。

 ワイドショーの中には平気で政治的主張を混ぜるものが有ったが、それは「報道」ではなく「芸能」だった。内部的にも、だ。

 それが昨今は、偏狭な主張をするか、主張が無くば、芸能的視点でのくだらない垂れ流し。

  昔のテレビは、「報道」と「芸能」は鬩ぎ合っていたのだ。それらが融合した事は、下世話な視点から見たら「面白くなった」と捉えられるだろうが、「報道」の退廃、迎合と捉える事もできるのである。

 漫画家にはつまらないかもしれないが、昭和のきちんとした大人は、そうした「報道」を楽しんでいたのである。

 そうした「報道」の誇りが有れば、あそこまでの下世話な舛添バッシングとはなっていなかっただろう。

 

 小林は、テレビの街頭インタビューで「もっと早く辞めるべきだった」とか「逃げられたという感じ」と答えた人を「馬鹿なおばさん」と不特定多数に向けて言い触らしているが、そういう自分こそがリンチを行っているではないか。

 おばさんには権力も、表現手段も無いのだぞ。

 しかも、テレビから意見を聞かれてそれに答えているだけだ。

 そして、ここが小林のお利口ぶりの最たる所なのだが、テレビとは自分達に都合の良い編集・構成をしているという事が頭に無い。

 そういう意見を採り上げたら視聴者が溜飲下げて好反応を期待できるから、ワザワザ街の声を拾ってそこだけ流しているのだ。

 そのおばさんだって、発言の前後に「可哀想だけど」とか言っているかもしれない。言っていなくとも、普段の生活では思っているかもしれない。

 いずれにしても、好意で答えているだけであって、自らマイクを奪って訴えかけたわけではないのだろう。それを無差別に「馬鹿」呼ばわりとは、かなりのお利口さんである。

 本来は「テレビ」「マスメディア」という巨大な存在に向けるべき敵意を、街のおばさんに向けて、それがウケたと喜んでいる。情けない。

 

 切り取った発言だけ都合良いように解釈し、攻撃材料にするというのはカスゴミの常套手段だが、小林よしのりも最近、この傾向が強くなっている。

 高市総務相の例の発言や麻生太郎の「ヒトラー」発言を、カスゴミが流しているままに『民主主義という病い』の結びに使っているのを見て、ワタクシは非常に幻滅した。

 おそらく彼は、意図的にああいう使い方をしたのだろう。

 真意が理解できないのであればそれこそ馬鹿だが、お利口さんの小林が馬鹿とは思えないので、そう判断する以外に無い。

 つまり、物凄い悪意で大衆の意識を操作しようとしているという事になる。

 ワタクシは老人の症状の一端だと好意的に解釈しているのだが。

 

 ゴーマニズム戦歴なんて本が発売されるようだが、ワタクシには無用の長物である。

 我が心中に、ゴーマニズム戦歴は刻まれているから。

 彼が戦っていた相手は、巨大な殺人教団、反日意識、大いなる捏造。

 その輝かしきも悲壮な戦いぶりに、それこそ嗚咽しながらページを繰ったものだ。

 それがネットに来るや、所謂ネトウヨはおろか、街のおばさんにまで馬鹿と噛み付く矮小ぶり。

 ワタクシの悲嘆がどれほどのものか、誰にもわかるまい。

 人間、馬鹿と利口の最小にして最大の境は、名を惜しむかどうかである。

 どうかその死の際に、「憎い漫ちくしょう」と呼べる男に戻って欲しいものだ。

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