無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

【麻雀回顧】 大隈秀夫(2)

 昭和47年の第三期名人戦も予選は16名の参加だった。

 各麻雀団体からは、日本麻雀連盟から高田英一と金田英一両六段、日本麻雀道連盟から後藤豊水八段と灘麻太郎七段、日本牌棋院から坂田光行と浅倉敏友両六段、東京都麻雀業組合連合会(都雀連)から青木博と今野栄八郎両七段という顔触れ。

 そして著名人、麻雀評論家からは、五味康祐阿佐田哲也小島武夫、古川凱章、板坂康弘、福地泡介。それに双葉社主催の実業団対抗で優勝したコクヨの主将という顔触れだった。

 

 激戦を勝ち抜き、大隈秀夫第二期名人に挑む事となった四名は、金田英一、浅倉敏友、古川凱章、小島武夫であった。

 阿佐田哲也と共に麻雀新選組を成していた小島・古川の両輪が共に決勝進出で、ようやく新選組から名人が誕生する期待が高まった。

 また、小島武夫と守りの神様と呼ばれた大隈秀夫の対決は、攻めの小島か守りの大隈かという興趣を広げた。

 

 結果としては、俊英・古川凱章が見事に名人位を奪取し、自身の麻雀評論家活動の地位を揺るぎないものとした。

 この当時は、この名人位しかタイトル戦も無く、そもそも麻雀専門誌も本格的には登場していない神話時代で、賞金三十万円のこんな小規模な大会であっても、名人という地位には非常に大きな価値が備わっていた。

 しかし、この決勝戦は少しばかり物議を醸した。

 小島武夫が古川凱章の捨て牌を見逃し、山越しで大隈から当たったのではないかと、後の牌譜を見て大隈が噛み付いたのだ。

 

 これに関しては、阿佐田哲也が牌譜を提示しながら解説し、大隈の記憶違いと指摘したものの、遺恨を残した。途中から古川の名人奪取に小島が協力した、片八百長という疑惑の目は消えなかった。

 浅倉敏友を擁していた日本牌棋院は、直接的にはこれを契機とし、麻雀新選組とは犬猿の仲となり、最終的には一切卓を交えぬ事となる。

 これには、阿佐田哲也小島武夫らが麻雀の入門書、戦術書で売り上げを伸ばし、それまでその分野で稼いでいた牌棋院総裁の天野大三の著書が食われてしまったという側面も有った。

 

 やはり、それまでの麻雀書で稼いでいた中核だった、道連盟会長の村石利夫は、「道場破り歓迎」を標榜して在野の腕利きを集めるなどの懐の広さを持っていたためか、終始一貫して新選組やそれに付随した動きにも寛容であり続けた。

 彼の呼び掛けに呼応して来た腕自慢の一人が、この年から名人戦に参加している灘麻太郎だった。後年、灘が第五期最高位戦にまつわる疑惑で近代麻雀誌から出入り禁止となったのと時を同じくして、灘は小島武夫と共に日本プロ麻雀連盟を設立した。

 他の麻雀団体所属者は基本的に灘を擁護するプロ麻雀誌には出なくなってしまったが、道連盟所属プロは、元道連盟の灘個人との繋がりも有って、そちらにも登場していた。

 

 大隈秀夫と麻雀新選組の遺恨は、この決勝だけにとどまらず、昭和48年の近代麻雀主催第一期王位戦予選に於いても、新選組が同志の田村光昭を決勝に押しやるための行為をしたとして大隈が憤激した。

 それでも、大隈秀夫は佐賀出身で福岡出身の小島武夫とは「攻めか守りか」の論争で麻雀界を賑わしたよしみも有ってか、件の最高位戦事件までは、根本的に小島との関係も断たなかった。

 事件の余波で小島・灘・荒といったスター雀士が近代麻雀誌から一度にいなくなったため、大隈秀夫は、本来ならB級転落だった第五期最高位戦の成績を不問にされ、第六期からも引き続きA級で出場した。

 

 そして昭和57年、第七期最高位戦決勝に於いて、わずか28.2ポイントという現在も更新されていない最低得点で最高位を獲得した。

 いかにも守り切ったという辛勝は、守りの大隈の麻雀形態を凝縮したような戦いだった。

 この時、9.2ポイントとただ二人のプラスを堅持した二位は、第三期名人戦で大隈から名人位を奪い取った古川凱章だった。

 この雪辱劇を最後の花道として、大隈秀夫の名は麻雀界から溶暗していった。

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