読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

特別昭和テレビ特別寄稿「大橋巨泉を通して振り返るテレビの黄金時代」

 我が勝手師匠の一人、大橋巨泉師の死去が報じられた。

 個人的な思いは幾つか有るが、それを書いても詮無いので、ひたすら故人の来し方を振り返ってみよう。

 いつもの通り、通常の報道ではまず流されないような事を中心としていきたい。

 従って、余所で幾らでも報道されるような情報はなるべく省いていこうと思う。

 

 大橋巨泉は元々がジャズ評論家であり、早大二年当時、やはりジャズ評論家から開局したての日本テレビ社員となった藤井肇のツテで局に出入りするようになり、これも入局したての井原高忠と知り合う。

 昭和32年、井原から『ニッケ・ジャズ・パレード』の訳詞を依頼されたのが、彼の初のテレビでの仕事だった。以後、暫くテレビの裏方が続く。

 『ニッケ・ジャズ・パレード』は、ニッケこと日本毛織提供の音楽番組だが、井原の発案によるヘレン・ヒギンスの網タイツ姿が、刺激の少ない当時に殿方の楽しみとなって、当時としては人気を呼んだ。

 

 そのうち井原は、草笛光子による『光子の窓』も手掛けるようになった。これは井原による初のバラエティ・ショーで、日本のバラエティ番組の源流とも言える番組である。

 或る時、井原が巨泉に、NHK相撲解説の大山親方の役をやってくれと依頼してきた。これが巨泉のテレビ初出演である。*1

 『光子の窓』にはその後も度々出演したようで、最終回は出演者総出演の一大絵巻だったが、それにも出演している。

 『光子の窓』は出演のみではなく、特に永六輔が安保で番組をすっぽかしてからは、関わりが深くなったという。

 

 ラジオ関東前田武彦永六輔がやっていたトーク番組『きのうの続き』に、通りがかった際にたまに無料出演していた巨泉は、そこでも降板した永六輔の後釜を務めた。永は気に食わないと番組を降りてしまう癖(へき)が有ったようだ。

 後にゲバゲバ90分での共演が話題を呼んだが、既にラジオではたっぷりと話し合っていた二人だった。この番組はかなりの人気だったようで、前田武彦は昭和40年代まで続けている。

 昭和37年12月12日の放送で、巨泉が「早慶以外の私大は程度が低い」と言ったとして、聴取者が新聞の投稿欄で苦情を書いた事が有る。

 なんと巨泉は、その投稿に(東京都中野区・大橋巨泉)として、同じ投稿欄で反論しているのだ。

 そこでは「投稿に抗議します」とキッパリ述べ、事実は「早慶の学生及び卒業生の中にそうしたエリート意識が有る」と言って、前田がそういうのは嫌だと言ったのに巨泉も同意したのだという。そして、良かったら録音テープをお聞かせしても良いとまで書いている。*2

 

 こうした昭和30年代は、なんだかんだ言って巨泉の肩書きは「ジャズ評論家」であり、テレビの世界では裏方の「構成作家」だった。

 それが激変する切っ掛けとなったのは、世に知られるように『11PM』の司会をした事である。

  新興のNETが『木島則夫モーニングショー』で朝の時間帯を開拓した事は、他のテレビ局の制作意欲を刺激した。中でも老舗の日本テレビは、朝と夜とにワイドショーの新設を企画した。

 朝は子供向けの『おはよう!こどもショー』とし、夜は大人向けの『11PM』と、どちらも長年に渡って親しまれ、テレビ史に残る番組となった。

 その『11PM』の初期は、特に関東制作の月水金は、朝の『モーニングショー』をそのまま夜に持ってきたような堅さが有った。ニュース・ショーと呼ぶべき内容だった。

 

 月曜担当プロデューサー横田岳夫と親しかった巨泉は、第一回の放送後に助言を求められる。

 硬さを感じた巨泉は率直にそれを伝え、どうすれば娯楽色が出るかという相談に、麻雀や競馬、ゴルフなどを扱ったらどうだろうと提案する。ゴルフはともかく、麻雀・競馬といった賭け事をテレビで扱うなどという発想は皆無の時代である。

 そして巨泉が台本を書く10分程のコーナーが出来る事になったが、誰がやるかとなった時に適任者が見当たらなかった。横田は、「巨泉、自分でやってみない?」と言い出し、それを巨泉が受け入れて、「巨泉のなんでもコーナー」が出来た。つまり巨泉は、イレブンの早くも二週目から参加、出演している。

 その第一回では麻雀を扱ったらしい。天野大三考案の報知ルールによるリーチ麻雀が高度成長期の麻雀ブームを生み出し、麻雀は絶頂期を迎えていた。翌年には文豪・五味康祐の「五味マージャン教室」がベストセラーとなり、文字マスコミにも麻雀の読み物が激増した。

 時代は、日本人は、うねるように新たな娯楽を貪り始めていた。11PMは時代を常に先取りし、大橋巨泉はその尖兵になった。

 

 続けてゴルフ、釣り、競馬とコーナーは続いた。ゴルフも競馬も巨泉は素人の次元だったが、その後の精進でどれも玄人はだしの腕となった。

 競馬中継では、これは昭和50年代だったと思うが、ラジオの冠番組で、裏方さんたちのストに手厳しい事を言っていたのを覚えている。

 曰く、馬に罪は無いのだから、世話をしないなんておかしい。だったら、そういう仕事に就くべきではないという内容だった。ストの趣旨はともかく、何も意見を言えない動物を巻き添えにすることが許せなかったようだ。

 

 11PMは半年後の昭和41年4月より、関東(月水金)の司会が小島正雄に替わる事となった。しかし、小島は週三回はキツイと訴えたため、残る一日を誰にするか、かなり揉めたようである。

 横田岳夫は巨泉を推したが、反対意見は多かった。だが結局これが通り、巨泉の金曜イレブンが誕生する事になる。

 この金曜では浅丘雪路がアシスタントで、彼女のふくよかな胸を「ボイン」と称したのが、事典にまで載る日本語として定着してしまったのは、今では有名な話である。まだ、「おっぱい」などとテレビで言えない時代ならではの機転だった。

 

 昭和43年1月20日(土)未明、小島正雄が心筋梗塞で急逝する。後を埋められるのは金曜担当の巨泉しか居なかった。

 巨泉は一時的に月水金を担当するが、流石にキツイという事で水曜は降りたものの、月曜は金曜と共に以後も担当し続けた。

 月曜は松岡きっこが長く相方となり、「巨泉は考える」など、堅い時事問題にも斬り込んだ。言ってみれば、「左手にオッパイ、右手に麻雀牌、ときどき頭で時勢を心配」という硬軟を巧みに配したのが巨泉流であり、11PMという番組の真骨頂だった。

 

 『11PM』という番組は、テレビの表現範囲をほぼ完璧に引き出した。それまでテレビに嵌められていた枷を、可能な限り取っ払った枠だったと言って良い。

 言ってみれば、テレビ史上、最もテレビらしいテレビだった。

 そして、その具象化形態であった大橋巨泉は、テレビが生んだ最もテレビらしい人物だった。

 番組も人物も、そういう巡り合わせに居たという事である。

 巨泉は、自身の半生を振り返る番組で、己が生涯をこう表現した。

 「ラッキーだったな」

 日本が、テレビが幸せだった時代に才能を謳歌できた僥倖を、彼は知っていた。

 

 

*1:『ゲバゲバ70年!』大橋巨泉講談社

*2:読売新聞

広告を非表示にする