無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

パチンコ回顧「初の出玉交換」

桜花賞

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はぁ~。今週も爆死。

しかし、最初は100円だけ連複1-3買って、

900円複勝で10番を買いかけていたのだが。

確認画面まで来て気が変わってしまった。

無念。

 

パチンコ回顧

 前回はフィーバー登場というパチンコの一大エポックを回顧したのだが、今になって考えてみると、それまでの最大革命だったチューリップ登場をもはるかに陵駕する画期的出来事だった。

 なにしろ、その後ずっと、7が3つ揃えば大当たりという、デジパチの雛形ともなっているからだ。

 ま、それも元にはカジノのスロットマシンが有る訳だけれど。

 

 フィーバーがパチンコを大きく変えたもう一点は、「打ち止め」という概念を無くしてしまった事だ。

 既に述べたようにその昔のパチンコでは、大体3000発も出すと機械に球が補給されなくなって、打ち出す事が出来なくなった。

 その状態を称して「打ち止め」と言い、台には打ち止め札が貼られる。およそパチンコを打つ者は、誰もがそれを目指して打っていたのだ。

 しかし打ち止めへの道のりは難行苦行。

 スランプと呼ばれる謎の凪状態で出玉を減らし、また少し出て、また減らしという一進一退を繰り広げて後に、ようやく本格的に出始めて打ち止められるという形が殆どだったから。

 しかし、凪状態と本格的な退潮との見極めは素人にはほぼ不可能で、いずれまた出るだろうと思っていたら結局全部飲まれてしまうなんて話がザラなのは、時代がデジパチになっても手打ちの時代でも変わらないのだ。

 ワタクシなんかはまだ子供と言える年だったから、飲まれるのが嫌で、700発くらい入る緑のラバー箱が2つになったら交換するようにしていた。気乗りしない時は一箱でも交換していた。

 当時まだワタクシは現金化できるという事を知らず、全て本当の景品と交換していた。

 ワタクシの行っていた店ではレコードなんかも置いてあり、一番最初に出玉交換できた時は、山口百恵の「冬の色」を景品に入れたのを覚えている。

 500円1000円も打てば大概遊べたし、その上レコードやらお菓子やらたっぷり取れて、ワタクシはご満悦という状態だった。思えばその頃が最も楽しんでパチンコを打てていたと思う。

 その後もちょくちょくレコードは取って、母親が好きだった五木ひろしの「おまえと二人」とか、当時かなり売れていた小林幸子の「おもいで酒」なんかを取ってきて、母親にあげたものだ。

 パチンコで取ってきた物と言ったかどうかは忘れた。もしかしたら、と言うかおそらく、言ったような気がする。

 そういうのどかなパチンコ風景は、フィーバー機の登場によって吹き飛んだ。

 なにしろ一度大当たりしたら、即、それが打ち止めへの始まりなのだ。あとは玉が打ち出せなくなるまでハンドルをずっと握っているだけ。ゲームとしての楽しみなど微塵も無くなった。

 尤も、最初の頃のフィーバー機は結構パンクも多かった。