ゴーマニズム観戦歴(3)
ワタクシにとっての小林よしのり
この漫画投句でのワタクシの小林よしのり評と、恥恥放談や不理意投句での小林一派への物言いとの違いに戸惑う人もいるかもしれない。
圧倒的大部分の人は、こんな底辺の人間がWebの底辺で何を書いていてもまるで気に留めていないだろうが、小林信者の中には気に掛かる人もいるかもしれない。
だから、ワタクシの小林よしのりへの思いを判り易く要約して書けば、かつての彼は、ワタクシの憧れだった。その思いは、この観戦歴で余さず吐露していくつもりである。
だが、老いのせいなのかどうか、或る頃から彼は、絶対強者ではなくなっていった。
憧れの対象だから、いつまでも強くあって欲しいのだ。
ウルトラマンがウンコする場面を映像化したのを見てファンが喜ぶか?
月光仮面が街のおばさんに「おいババア」と話しかける場面を子供達が喜ぶか?
常に強く、気高くあって欲しいのだ。憧れなのだから。
勿論それは、常に正論を吠えろという事ではない。むしろ昔のように上手く傾けるのなら傾いて欲しいくらいなのだが、もう、そういう立場でもないのだろう。
今回、この観戦歴を書き出してから、『ゴーマニズム戦歴』(KKベストセラーズ刊)では、とてもワタクシのゴー宣観を網羅しきれない事に苦慮し始めた。
書きたい事を覚えていて確認しようとしても、ほとんど載っていない。
勿論、ゴー宣回顧の取っ掛かりには最適な本なのだが、ワタクシのようなプロ級のゴー宣読者には、あれでも物足りないのだ。
前回の締めでワタクシが書いた言葉は、ギャグではあるが嘘ではない。
本当に、ゴー宣をワタクシのような視点で語れる人間はこの世に他に一人もいないと確信している。
おっと、まだコーマンかますには紙幅が残ってるぜ(笑)。
扶桑社版と双葉社版とは
てなわけでゴー宣原本を確認したくなったのだが、なにしろ引っ越しの時に箱に詰めてしまい、どこに有るやら、探すためにはあちこちほじくり返さねばならないので短期間ではとても不可能だ。
そしてとうとう、また買ってしまったのである。ゴーマニズム宣言を。
だがほくそ笑むのは早いよ、小林くん。これはブックオフでの100円物なのだから。
そもそも初代ゴー宣は、全巻その時その時に買っているのだ。このくらいの経費節約は有りだろう。
そして、折角の二重買いという事だからと、今回は一番最初の扶桑社版ではなく、双葉社による定本版の方を入手した。両版を持っている人間など、かなりの小林信者でもいないのではないか。
ネットで検索してみると、この両版の意味がわからない人がたまにいるようだが、それにきちんと答えられる人間もいないようだ。もう結構な年月が経っているからな。
そもそもゴーマニズム宣言とは、扶桑社のSPA!という雑誌に載っていたもので、単行本も扶桑社から1巻から8巻まで出していた。
ところがオウム真理教との対決で小林が彼らから命を狙われたというのに、当時のSPA編集長は、雑誌に両論併記の方針を貫くとかで、オウム側を広報するような記事を載せだした。
相手は殺人教団で、それに書き場を与える事が「両論併記」と思う感覚も異常だが、小林は流石にその雑誌で描く気力を失い、掲載誌を小学館のSAPIOへと移すと共に、単行本の発行権も扶桑社から取り上げたのだ。
そして新たな9巻を双葉社から出すと、改めて過去の1~8巻も定本版と称して双葉社から再発行したのである。
さて、そうして今ワタクシの手元に定本版の1~9巻が有るわけで、今後は『戦歴』の方からではなく、こちらから引用していく。
読者との葛藤
今日、やりたい事は山と有るのに、つい全巻をザッと流し読みしてしまった。どこまで小林マニアなんだという感じだろう、傍から考えたら。
流し読みしていたら、ちょくちょく当時の感覚が蘇り、時に目が潤んでしまう。
最初の頃のゴー宣(1巻)は各回見開き2ページで、内容もその時その時の時事に関した事で、まだまだ幼稚で浅いものが多い。当時の若さを考えれば当然だろう。絵も下手だ。
「ゴーマンかましてよかですか」も、しばらくやるのを忘れていたりする(笑)。
第七十三章「悪良識の来襲」(3巻)で、小林は読者からの異論・反論を採り上げている。
中で、六十六章で採り上げた障害者プロレスの話で脳性麻痺のレスラーを「少し知恵遅れ気味」と書いた事をそのレスラーの知り合いに咎められ、しかもレスラー自身も小林の言葉を悪意に受けて止めて、「いろんなことを頑張ってわかってもらうしかないと思う」と言っていた事を伝えられる。
小林は、「最近、これほど落ちこんだことはない」と、うなだれた絵を描いている。
普段あれほど荒ぶっている人間が、しかも真意を曲解されてしまって、ここまで落ち込みを吐露している図を見たら、毎週面白く読んでいる人間としたらホロッともするだろう。
続けて、「驕るな」式の投書を騎士姿の小林らが斬りまくっていく。この頃は小林よしのりも、一般人の異論をきちんと見世物として処理できていたのだ。
そして、てんかん患者の女性からの励ましのお便りに騎士姿の小林は落涙し、「ち…力が湧いた~~っ」「わしは闘う~~っ」と全力で叫ぶのだ。
ここでも、いま読んでいても目頭が熱くなってしまう(笑)。
この叫び。
一体、どれほど表現に悩んでいたのだと。
第七十九章(4巻)では、イタリアでの或るレイプ事件の際に、女性たちに「金玉つぶし」を伝授した回(第四十五章:1巻)が有ったのだが、その被害者がそのゴー宣表現にも触れて、「興味本位の報道に振り回されました」と吐露した事を採り上げている。
それに対して、「はっきりゴー宣はセカンド・レイプしましたと言ってほしかった!」「わしは女の敵である!」「侮蔑しなさい!」と言い切っている。
続く第八十章では、自分も現場を見ていないのに屠殺現場の事で女性を軽んじた表現をしたと反省し、「どーだ!? わしはこんなにミスをしている!」「わしはぶざまにミスをする天才じゃい!」と宣言している。
こうして、初期の頃の、勢いで深く考えずに描いていた時代の小林は、別の観点からの精算を迫られた。
そして「死闘」へ
新しめの読者には想像できないだろうが、小林よしのりも数多くの失敗をしてきたし、勿論、いまだに表現上では認めていないものだって有る。
だがなー。
葛藤というのは人間を成長させるのだよ。
単行本を持っている者は確認してみたまえ。単行本の2巻、3巻と見る見る上達していく絵柄を。4巻、5巻と、鋭く研ぎ澄まされていく構成を。
この辺りで「ゴーマニズム宣言」の表現力が格段に上達していくのがわかるだろう。
しかし、この頃はまだ「目頭が熱くなる」くらいでとどまっていられた。ワタクシは男がメソメソするのは大嫌いだから。
そんなワタクシも、彼がこれから飲み込まれていく激動に、涙腺が崩壊する時がやって来る。
その開始ゴングは、小林自身が鳴らした。「死闘編」と称して。
尤も、この「死闘編」は、真の死闘編の呼び水に過ぎなかった。
その事は、当の小林やワタクシのような優れた直観力の人間ですら、微塵も想像できなかったのだ。
コーマンかましてもいいですよね
努力や苦労が人を成長させるとは限らない。
だが異常天才と言えども、人は葛藤によってしか研ぎ澄まされた思考を獲得する事は出来ないのだ。