昭和唱和ショー「ドブ川」
Gさん(仮名)「昭和30年代の東京下町というとワタクシが思い浮かぶ絵面が、ドブ川なんです」
ごいんきょ「たしかに多かったなあ。道の端の方に、下水用水堀が剥き出しになってる部分がそこかしこに有ってな。東京に於ける公共の蓋無しドブ川は、延べ851km有ったそうだ*1」
G「蓋が無いのに、今の地方でよく見る側溝なんかより、ずっと幅も深さも有りましたよね」
ご「だから子供の格好の遊び場になったし、又、子供の悲劇も非常に数多く生じている。それこそ無数の事故が報道されていたな」
G「なんで、そんなに事故が多かったのに対策をされなかったんでしょう」
ご「そりゃ、お金が無かったからだよ。昭和30年代までは、日本も非常に貧しかったんだ。家だって木造アパートが多かったからな、都心でも」
G「元々が水田地帯だった葛飾、足立、江戸川なんてとこは、田圃用水がそのままドブ川になっていて、特に多かったようですね」
ご「あとは大田区などの工業地帯にも有ったな。流石に、東京の本当の中心部では見かけなかったんだろうが」
G「完全な地下化は予算がかかるとしても、せめて蓋くらいは出来なかったんですかね」
ご「それだって金がかかるわけだが、あとは耐久性の問題も有る。当時のドブ川というのは、そんな補強されたものではないからな。そんなとこに、しっかりと蓋をすると、却って崩れて危ないのではないかとか。それに、経費節減で木製の蓋をしたら、腐って危険なんだな、これも」
G「蓋をしようにも、そのためにはドブ川全体を作り替えるくらいの手間と経費が必要になったんですね」
ご「あとは、ドブさらいが出来なくなるという点も有った」
G「そう言えば、その頃はドブさらいをしている人がいましたねえ」
ご「当たり前だ。やらないと詰まって、大変な事になるから。そんなこんなで、ドブ川には蓋や柵をしないというのが原則だったんだ」
G「え? 仕方無しに無かったのではなくて、それが原則だったんですか」
ご「そう。だから、何十件と子供の事故死が有っても、一向に改善されなかった。今ではとても考えられないがな」
G「あの頃の東京のドブ川って、子供が遊ぶのに持って来いなんですよね(苦笑)」
ご「ああ(笑)。広すぎず深すぎず、飛び跳ねたり潜ったりの冒険心をそそられる格好をしていたんだよな(笑)」
G「やはり東京オリンピックで無くなっていったのでしょうか」
ご「中央部はそうだと思うが、周辺部はむしろ大阪万博の頃だな」
G「乞食もその頃にいなくなった事はやりましたね」
ご「東京では、その頃が美濃部都政なわけよ」
G「ああ。後楽園競輪を無くした人ですね(笑)」
ご「そうそう(笑)。左側の知事だから、ちょっと潔癖な所が有って、でも、それが環境方面では良い方に行ってたのかもな。借金は膨大に残ったらしいが(苦笑)。
そんな美濃部都知事が、ドブ川対策も厳重に指示しだして、昭和40年代後半には東京からドブ川が見えなくなったな」
G「今度の東京オリンピックを前に、今度は電柱の地下化が言われてますね」
ご「これも、かなり厳しいだろうなあ。ドブ川同様に、オリンピックが終わってから、暫くかかるだろう。しかし、その頃の日本にそれだけの余力が有るかは難しいとこだな」
G「今度の東京オリンピックで無駄にかかっているように見える予算を、そういう方面に回した方が、まだ都民のためになったんじゃないですか?」
ご「そういう話は、まず政界のドブさらいをしてからだな」
G「なんだか落語家みたいなまとめ方ですね(苦笑)」
*1:昭和37年3月19日付読売新聞