昭和唱和ショー「電報」
Gさん(仮名)「電報の終日受付が無くなるんだそうで」
ごいんきょ「う~ん… とうとう無くなるのかあ」
G「使った事は有りますか?」
ご「有るなんてもんじゃないね。わしは携帯電話の普及前は、電話を入れてなかったから」
G「固定電話入れるのには、保証金かなんかで、結構お金がかかったんでしたっけ」
ご「それも有るけど、煩わしいからさ。知り合いも少ないし(笑)」
G(………)
ご「それで、親とは十年近く連絡を取ってなかったんだけど、向こうがどうしても用事が有る時は電報をくれてたな」
G(親不孝め……)
ご「ん?」
G「あ、いや…(笑)。
でも、電報だと夜中でもなんでも来ちゃうんじゃないですか」
ご「そういうのは”ウナ電”って言うんだよ。既に昭和51年に廃止されていたらしいから、わしとは関係無いね」
G「電報は配達の人が持ってくるわけですよね」
ご「そうだよ。郵便配達と同じ。いれば手渡ししてくれるけど、不在の場合はポストとか、わしはその頃ポストも置いてなかったから、ドアの間に挟んでくれていたな」
G(………)
ご「ん?」
G「あ、いやいや…(笑)。
結局、終日受付が無くなるというのは、需要がそれだけ減ったという事なんでしょうねえ」
ご「そうだろうな。携帯電話の普及は電話ボックス、公衆電話を無くしたが、電報も出番を無くしていたんだな」
G「配達の人もお役御免の時が近いって事ですかね」
ご「いやいや。まだ弔電とか祝電の需要は有るだろうから、完全に無くなるというのは近い将来ではないと思うよ。
配達の人と言えば、こんな記事が有るよ」
G「へえ! 電報が設置されたのって、大正十年なんですか。随分と古い事なんですね」
ご「いや、それは場所による。東京横浜間なんて明治2年には電報開始していたらしいからな」
G「この人は、どんな表彰されたんですか」
ご「この記事は、昭和39年春に、生存者叙勲が復活した時の記事だよ。つまり、戦後初の叙勲ということ」
G「あら~。そんな遅かったんですか、勲章が授与されるようになったのって」
ご「GHQが、叙勲は死者対象のみとお達しを出していたからな。で、GHQが居なくなったら復活させれば良かったわけだけど、恐らく左翼側が、人間みな平等みたいな観点で反対していたんだろう」
G「それで戦後20年近く経ってから、ようやく復活したってわけですか。長かったですね」
ご「この人は長年の勤続が報われたわけだけど、それ以前にもっと表彰されるべき人々がその機会を逸していたという事だよな」
*1:昭和39年4月28日付読売新聞夕刊