レコード大笑の黒歴史
一億円で買われた昨年度大笑
今年一年、スクープ連発で名を上げた週刊文春が、先週もどでかいものをぶち上げた。
三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBE(以下JSB)が昨年のレコード大賞を受賞するにあたり、芸能界のドンと呼ばれて久しいバーニングプロダクションの実力者、周防郁雄に一億八百万円が渡されたというもの。
八百万の「半端」は、消費税なのが可笑しい。嘘八百の賞に相応しい金額を演出したのだろうか。
レコード大賞の歴史は「買収」の歴史だったわけで、村社会である日本社会の悪い面が、芸能村には現在までも特に顕著に残っているという事だろう。
だが、「物的証拠」とされるものがぶち上げられるのは、非常に珍しいと言うか、初めての事だろう。
ワタクシに言わせれば、競り合った相手がAKBだし、どちらに賞が渡ったところで目糞鼻糞の話で、日本の歌謡界も事実上終わっているのを、まだかろうじて残っている地上波の影響力で無理矢理お祭りにしているだけの番組としか捉えていない。
ジャニーズにせよAKBにせよイグザイルにせよ、日本から綺麗な歌声を消した連中であって、彼らの在り様も勿論、芸能の一形態ではあるものの、「歌謡界」で彼らが幅を利かせるようでは、日本の音楽が死に体となっていくのも理の当然だろう。
これは既視感のある風景で、昭和末期、AKBのプロデューサーである秋元康が仕掛けた「おニャン子」勢と、光GENJIらのジャニーズ勢により、まともな歌い手が画面から消えて日本の歌謡界は瀕死の様態となった。
折しもメディアがビニールレコードからCDへと移行する時期でもあった。
現今も、旧来のディスクメディアからインターネットへと移行時期にあるとも捉えられるし、おニャン子がAKBに替わって、踊り手が台頭してきたという違いは有るものの、構造的には似たようなものを感じる。
それを救ったのがCDという当時の新たなメディアと、バンドブームによる芸能界に染まっていない方面の新参加だったのだが、インターネットがそこを再現できるのかが、文化的視点として興味の有るところである。
黒い噂の歴史
レコード大賞史上で、初めて黒い噂が大きく流れたのが、昭和41年の第8回だった。
この年、橋幸夫が「霧氷」で大賞を獲得したのだが、10月に発売されたばかりでもあり、本来であれば大賞を取れるような売り上げではなかったのである。
この背景としては、1月に橋が出した「雨の中の二人」が非常に良い曲で、売り上げも良く、大賞を狙うに相応しい曲だったというのが有る。
だが、この年からの規約変更により、1月発売のこの曲は、対象から外れてしまっていたのだ。*1
しかし、史上初の二度目の大賞受賞へとエンジンのかかった橋陣営は、宿敵・舟木一夫との猛烈な賞レースを繰り広げ、見事に勝利を収めた。
つまり、曲ではなく、歌手や周辺に与えられる賞という悪弊が、この時に出来上がってしまった。
元々、この賞が出来た昭和34年の頃は、「レコード」というのは趣味人か富裕層が聞くもので、所謂大衆は、ようやく安価なプレーヤーが普及し始めて、これも安価なシート類をたまに聞くくらいであったろう。
シートは書店販売で、レコードはレコード店販売という違いが有ったが、その店舗数は、書店が十倍近く多かったと思われる。まだまだビニールレコードは、大衆の身近に有るものではなかった。
このビニールレコードも、丁度この頃から普及し始めた媒体で、それまでのSP盤と呼ばれるものとの入れ替わり時期だった。
レコード大賞は、ビニールレコードという新たな媒体の登場に合わせて出来たような賞だったのである。
そして、アメリカのグラミー賞のようなものを日本にもという高邁な理想の下、古賀政男、吉田正、服部良一という日本歌謡界の三巨頭が足並みを揃える事で実現した賞だった。
レコード大賞立ち上げに関わった元TBSの砂田実は、上記文春記事で、「もともと記者に審査を依頼したのは、ジャーナリストなら賄賂をもらったり、接待に溺れることはないと考えたからです」と語っている。
だが、元々新聞記者など羽織ゴロ・羽織ヤクザと呼ばれた存在であり、記者だから高邁な理念が保証されるわけではない。
元日経記者の平井賢の行状を、その砂田がネット上で語っている。
尤も、件の橋幸夫受賞の時には、あまりの酷い結末に怒った新聞社の審査員が辞表を叩きつけたという話も残っている。*2
その前年の美空ひばり「柔」の時には、リンゴ箱の籾殻の中に現金を仕込んで送られた事件も有ったようで、第一回の時には受賞者すら「レコード大賞ってなんだ?」と思ったというこの賞も、お金を出してまで欲しい賞にまで大きくなっていたのであった。
ピンク・レディーすら饗応せねばならなかった
ピンク・レディーは、受賞した昭和53年度のレコード売り上げで、ダントツと言うにはあまりに打っ千切りの売り上げを誇っていた。
その年に百万枚以上を売り上げたのは3曲だったが、いずれもピンクディーの歌(UFO、サウスポー、モンスター)であった。
アメリカであったなら、文句無くグラミーを受賞する活躍である。
尤もそれ以前に、エンターテイメントの成熟していた当時のアメリカでは、ああした「ドール」が熱狂的に支持されるという事は至難であったろうが。
ともかく、普通ならなんの議論の余地も無く大賞に決まりそうな活躍だったピンクレディーだったが、日本の芸能事情では楽観できなかった。彼女らが所属していたT&Cという芸能プロは、元株屋が起こした新興芸能プロだったからだ。
そこで、既存の勢力に取り入るべく、あの手この手が用いられたようだ。
ピンク・レディーはこの時期、アメリカ進出も試みていたのだが、上記記事中でも砂田実が実名を挙げている平井賢を始め、7人のレコード大賞運営委員をT&Cがアメリカに招待した。
名目上は英語圏向け新曲の「取材」であったが、要は饗応である。
その前には、歌謡大賞の方の投票権を持つ面々を「ラスベガス公演取材」という名目で招待していた。
これだけの販売実績を持つ歌い手にして、饗応に次ぐ饗応で、漸く歌謡大賞とレコード大賞の二冠に漕ぎ着けたのだ。
五八戦争
その翌々年の昭和55年度レコード大賞は、史上に残る程の空虚な賞レースが繰り広げられた年だった。
その年は当初から、前年の「舟唄」で手応えを得た八代亜紀陣営が今年こそと異様に意気込み、彼女を宿敵視する五木ひろし陣営がその阻止と、個人では史上初となる二度目の大賞を目指し、年頭からこの二人以外が有力候補に挙がる事は無いという、異常な年だった。
売り上げ上位が、もんた&ブラザースや久保田早紀、クリスタル・キング、長渕剛など、実質的には前年のヒット曲だったり、新興勢力が並んでいたという事情も有る。
だが、巷でどんな歌が流行ろうが、スポーツ紙では、大賞の有力候補にこの二人以外の名が挙がる事は、一年を通して無かった。どちらかがこの年の大賞を取る事は既に既定路線で、あとはお決まりの饗応合戦が繰り広げられたようだ。
結局、売り上げでもヒット曲の数でも勝っていた五木ひろしではなく、初の大賞となる八代亜紀が受賞する事になった。
受賞曲「雨の慕情」はオリコン年間26位、五木の「おまえとふたり」は年間7位で、五木が取るのなら、まだ多少の説得力も有ったのだろうが、八代陣営の年頭からの意気込みが勝っていたという事なのだろう。
見ている側としては非常に白けた大賞発表となった年だったが、流石に世間的にも騒がれ、翌年は顔馴染みの歌手ではなかったにも関わらず、売り上げも申し分の無いジュディ・オングの「魅せられて」が大賞を受賞している。
開き直り立ち腐れで朽ちていくのか
だが、その後も節々で黒い噂は絶えず、平成になってからは、むしろ浄化の動きが後退したようにも思えていたが、そこへこの問題である。
もし事実無根であったなら、とっくに抗議なり法的措置なりが執られているに違いない。
だが逆に、JSB側の社長が報道直後に、まるで「オトシマエ」のように辞任するという事態なのである。
昭和時代の山口組・神戸芸能が幅を利かせていた頃の芸能界ですら、ここまで堂々と澱んではいなかったのではないだろうか。
見回せば、芸能界のドンと呼ばれる人々、件の周防郁雄、田邊昭知、ジャニー喜多川といった面々は、誰も彼も、碌でもない行状を世間に晒している昨今。
それを糾弾すべきマスコミも利権構造に名を連ねているため、業界の体質改善は進まないばかりか、どんどん澱んでいくのである。
本当に一部の週刊誌と、インターネットのみしか、これを報じるところは無い。
ワタクシが滓塵(カスゴミ)と断じる所以である。