無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

昭和唱和ショー「長者番付」

 時節柄、こんなものを扱ってみますか。

 正式名称は「高額納税者公示制度」というらしいですが、日本では2006年から公示されなくなってしまいました。

 昭和22年からの制度らしく、その顔触れはこんな感じです。

 上記ウィキペディアでは何故か昭和29年からしか載っていないので、22年から28年の所得番付をここで振り返りたいと思います。

 

昭和22年
  1. 三井高公  6200
  2. 岩崎久彌  4800
  3. 岩崎彦彌太 4100
  4. 服部玄三  3800
  5. 細川護立  3500

 (単位:万円)

 

 三井高公は三井家十一代当主、岩崎久彌は岩崎家三代、彦彌太は四代当主です。

 以後の順位にも三井財閥の三井家と三菱財閥の岩崎家の人物が何人も名を連ねています。

 まだGHQの財閥解体政策が本格的になっていなかったのでしょう。そして、旧財閥の中でも三井と三菱は、住友、安田とは歴然とした差が有ったようです。

 服部玄三は服部時計店二代、細川護立は細川家十六代で、護煕元首相の祖父となります。新興財閥と言われる存在と、旧華族も、まだ名を連ねておりました。

 

 戦直後には敗戦による莫大な国の負の遺産を賄うため、財産税が一時的に導入されていました。その累進税制は1500万円以上に90%という篦棒なもので、三井高公は5500万円近い税金を徴収されたようです。

 しかし、実際には前述のように家族も番付に名を連ねる高収入でしたから、財閥全体での収入は、食うや食わずだった一般庶民とは比較の対象とならないものだったのは間違い無いでしょう。

 

昭和23年

 これが昭和23年になると、名の通った人名はまったく見当たらず、ガラリと顔触れが一変し、時代が変わったことが実感されます。

 1位2位は織物販売業者、3位に金貸し、4位印刷業、5位寝台業と、かなり様々な業者が名を連ねています。これは新円移行のためで、新円長者番付と呼ばれました。

 従ってこの年は、非常に時代の色濃い特異な番付となっています。

 後に日米繊維摩擦を起こすことになる繊維業が既に勃興していますし、戦後の混乱の中で持て囃されたカストリ雑誌で稼いだらしき人物、庶民の貧窮に乗じて金融業で稼いだ人物、寝台業とは葬儀屋のことでしょう。

 1位は3500万円で、500万以上の所得者67人が発表されましたが、かなりの人数を繊維業者が占めました。

 糸へん景気は昭和25年頃からと解説されているようですが、実体は既に戦直後からの事だったのです。

 この年のいわゆる新円長者は、色々と問題のある人物が多かったようで、その辺も混乱の時代が象徴されます。

 

昭和24年

 個人所得一千万円以上のいわゆる千万長者が42名発表されました。

 1位は金融王と言われた森脇将光。高利貸しが所得一位になるという、まだ混乱期を脱せていません。しかも9千万とされた所得は、二位の皮革業者4500万の倍で、頭抜けた存在でした。

 3位は岩波書店の岩波雄二郎、4000万円。

 この年も、いわゆる糸へん業者、金融業、出版関連業者が番付を占めています。

 一千万未満の有名人では、吉川英治250万、上原謙130万、笠置シズ子200万、菊田一夫100万等々ですが、新聞紙上でエノケン、ロッパ、シミキンなどと報道されているのが後の世では考えられません。

 

昭和25年

 この年は「アプレゲールの荒稼ぎ」と称された人間が影を潜め、一千万以上の38人には、かなり名の通った人物が出てくるようになりました。

 日本もそろそろ混乱期を脱しつつあった事が、長者番付からも如実に読み取れます。

 1位は3849万、皮革業者。これも糸へん景気に付随するようなものでしょう。うち税金で3462万を持って行かれたようです。

 2位はペニシリン製造の長島銀蔵、3840万。成金と称されました。

 3位4位は糸へん業者、5位はタイプライターの黒澤貞次郎で、2957万。

 6位が真珠王の御木本幸吉で、7位がミツワ石鹸の三輪善兵衛、17位に岩波雄二郎など、ようやく職種や人名も安定した感が出て来ました。

 とは言え、森脇将光は脱税王として名を馳せており、その額は一億とされ、まだまだ桁違いの収入だったのでした。

 

昭和26年

 この年の番付はブリヂストン旋風が吹き荒れました。いよいよ日本もモータリゼーションの時代に入っていたのでしょう。

 日本タイヤ(後のブリヂストン)から1位(二代目)石橋徳次郎、2位がその実弟の正次郎で、共に2億5千万近く。5位が正次郎の子息・石橋幹一郎で1億8千万と、三人で6億5千万もの収入を計上したのです。

 番付上位16人は一億を超え、名実共の億万長者が日本にも出て来ました。

 11位の三井高公が(無職)となっているのが異色です。億万長者という究極のニート

 16人の億万長者の中に、繊維業者は14位の近藤信男しか入っておりません。近藤紡の近藤信男は相場師としても勇名を馳せ、後には糸山英太郎との仕手戦などで兜町を賑わせました。

 

昭和27年

 1位と10位に石炭業者が入り、日本が高度成長に入った事が現れつつあります。取り分け1位の4億7千万余は、2位の住友当主・吉左衛門を2億以上突き放す独走でした。

 三井当主の高公が11位、三菱四代当主未亡人・岩崎孝子が14位と、GHQの財閥解体政策も完全に「逆コース」に入ったことが判ります。但し、これらの名は翌年からは番付から消えていき、財閥が新編成されていったのも現れています。

 そんな中、4位に松下幸之助が入りました。電機産業が財界の上位に顔を出し始め、石炭ブームと併せ、いよいよ戦後復興が読み取れるようになってきます。

 

昭和28年

 この年、前年発表で29人だった億万長者が一気に114人となり、日本の復興はほぼ成し遂げられつつありました。

 番付の顔触れも、1位が8億二千万以上で松下電器松下幸之助、2位も8億余でブリヂストン石橋正二郎と、段々と高度成長期の実業界の顔触れが揃っていきます。

 億万長者の顔触れは、数年前のようなアプレゲール荒稼ぎの面々ではなく、堅実な企業の社長が激増します。

 これから昭和末期まで、日本経済は至福の時代を築いていくのでした。

 

長者番付とはどのようなものだったのか

 こうして改めて振り返りますと、長者番付というのは如実に日本の姿を現していたように思います。

 この後、平成バブル前後の狂った時代には、サラ金業者やパチンコ屋が顔を並べるようになりました。

 しかし、ワタクシが子供の頃、即ち高度経済成長を遂げた時代には、長者番付は歪んだ姿ではなく、憧れの対象でもあったのです。

 松下電器松下幸之助大正製薬上原正吉ら、丁稚奉公上がりの立志伝中の人物が毎年上位に君臨し、自分もこうなりたいと思ったものです。

 彼らは高額納税する事によっても社会貢献し、若者に大志を抱かせていました。