無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(40)

昭和44年放送開始のテレビまんが主題歌

 

 

ひみつのアッコちゃん

 初の少女物テレビまんが『魔法使いサリー』の後番組で、主人公が不思議な鏡を使って変身する、赤塚不二夫原作漫画のテレビ化作品です。

 前作をも凌ぐ人気番組となり、この二作によって所謂「東映動画魔女っ子もの」が有力な路線となりました。

 

 前作を凌ぐ人気だったのは音盤化の動きからも見て取れます。

 前作『サリー』では3曲も終了主題歌が作られたのに対して、本作では最初から最後まで、開始・終了両主題歌とも一度も変更されなかったにもかかわらず、朝日ソノラマは P-27、P-34と立て続けにソノシートを出しました。

 そのうち P-34 は、赤塚不二夫の絵とアニメの絵との二種の扉絵が存在しており、二集目なのに結構な売れ行きで重版された事が伺えます。

 更に P-42 として「夏休み うたのアルバム」と題した企画盤まで作られました。朝日ソノラマのテレビものソノシート史上でも、非常に珍しい例です。

 他に、例によってコロムビアからレコードが出されましたが、こちらも結構な売れ行きだったと見えて、今でも中古市場での入手は容易です。

 

 この人気は、商品化によっても支えられました。そして、テレビまんがの提供会社に、一種の変革点をもたらすのです。

 前作『サリー』以来の主たる提供会社である、「亀マークでお馴染みの」中嶋製作所が、「ひみつの鏡 テクマクマヤコン」を販売して大当たりしたのです。

 明治製菓提供『鉄腕アトム』以来、テレビまんがを支えてきた提供会社は、製菓会社が主流でした。

 しかし、この頃になると競合番組も著しく増え、しかも、より影響力を強めていたテレビの電波料も上がる一方で、単価の安い子供向けのお菓子の宣伝目的では、製菓会社には提供の旨味が減っていたのです。

 

 そんな中、この番組でのコンパクトの大当たりは、テレビまんがへの玩具会社の接近意欲を、より強くする効果が有ったと思われます。

 この後、段々と玩具会社がテレビまんがと関わってくるようになるのですが、そうした提供企業の流れも、おいおい解説して参ります。

 なお、この番組は中嶋製作所の他にも、協同乳業などが相乗り提供していました。

 

 

海底少年マリン

 元々『ドルフィン王子』として、昭和40年4月にフジテレビで3週だけカラー放送された作品が元となっており、それが翌年に再制作されてTBSで『がんばれ!マリンキッド』として13本放送されたものが根底に有ります。

 それをまた更に昭和44年に話を拡張してフジテレビで放送したものが、この『海底少年マリン』で、非常に特殊な経緯を持った作品です、

 この『マリン』を制作する際に、過去の場面などが編集されて流用されてしまったのかどうか、この『マリン』放送後は、『ドルフィン王子』は勿論、『がんばれ!マリンキッド』も、一切目にする事ができなくなってしまいました、

 

 その代わりというか、この『海底少年マリン』は、ワタクシの子供の頃は夕方など当たり前のように再放送されており、ワタクシの世代には意外と認知度の高いテレビまんがです。

 その名の通り、海底を舞台に活躍する主人公の話で、噛むと呼吸可能となるオキシガムなどのSF描写が目を惹きました。

 主題歌も非常に歌いやすくノリの良いものでした。

 シートはソノラマだけで、レコードの方は、キング、ビクター、東芝と三社から出されました。

 

 

そばかすプッチー

 開局当初の『進め!ラビット』以来、フジテレビは18時50分台に外国ミニまんがを放送し続けておりましたが、『ジョニー・サイファー』で日本の作画スタッフが使われ、後番組のこれは、とうとう国産のテレビまんがとなりました。

 『ジョニー・サイファー』には開始主題歌というものは無かったのですが、この『プッチー』には主題歌が出来、テイチクからレコード化されました。

 歌っているのは「フジ・ジュニア合唱団」となっており、フジテレビ『ちびっこのどじまん』に出演していた子供ではないかとワタクシは思うのですが、いずれにせよ、フジテレビ仕込みの児童歌手でしょう。

 

 ですから、その後であれば当然フジテレビ系のキャニオン・レコードから発売されていたはずですが、キャニオンが設立されるのは翌昭和45年の事です。

 昭和30年代初頭のテレビ黎明期に、大きな発言力を持っていた評論家の大宅壮一が、「一億総白痴化」を推進するものとしてテレビ・ラジオを激しく攻撃していたため、電波媒体は民放と言えども、より強い公共性を要求されていました。

 そのため、そうした公共の電波を独占的に使用しているマスコミであるテレビが営利優先の活動をする事など、当時は大っぴらに出来ない世情であり、テレビ局がレコード会社を持つなどという事は、あまり考えられない事だったのです。