無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(11)

渡辺プロと東芝レコード

 渡辺プロダクションは、日本の芸能界で数々の新しい商慣行を定着させた所でした。

 そもそも芸能プロダクションとして老舗のような存在でありますが、「月給制」と呼ばれた、歌手の収入を一定額保障する制度によって、その地位を築いたと言えます。

 更に、あまり一般的に知られていない事として、レコード制作に於ける「原盤権」という権利を、邦楽盤で初めてレコード会社側から取り上げたという事も有ります。

 事の起こりは、昭和36年8月20日に発売された植木等の「スーダラ節」制作に於いてでした。

 渡辺プロダクション社長夫人・渡辺美佐は、「『スーダラ』の原盤権は渡辺プロよ」とレコードディレクターに切り出したとされます。*1

 

 この時、かの担当者は一瞬、なんの事か判らなかったようです。しかし、洋楽では通常に使われていた制作手法、権利でしたので、すぐに理解し、上層部の判断を仰ぐこととなりますが、結局は渡辺プロの言い分が通ったのでした。

 そのレコード会社は、新興、昭和32年に吹き込みを開始し、33年から本格的に始動したばかりの東芝レコードでした。

 渡辺プロと東芝レコードは縁深く、昭和34年の第一回レコード大賞は、渡辺プロ所属の水原弘が受賞し、見事にバリバリの新興だった東芝レコードに栄冠をもたらせたものです。しかし、その時は渡辺プロも著作権事業に目覚めておらず、わずか三千円で東芝レコードに買い取られていたのだといいます。

 その時の借りも有り、また、まだ新興のため強力な後ろ盾を持たなかった東芝レコードとしては、めきめきと力を付けていた渡辺プロの意向に、逆らい難いものが有ったのでしょう。

 しかし、結果として『スーダラ節』は大ヒットとなり、以後もクレージーキャッツはヒット曲を連発することとなりますので、東芝としてはやむなしという気持ちでしたでしょう。

 

 この翌年、やはり東芝レコードの専属で、渡辺プロとは縁戚関係と言えるマナセプロ所属の坂本九が歌った『上を向いて歩こう』が外国でも販売される事となり、キャピトル・レコードから著作権の問い合わせが東芝レコードに来たのでした。

 東芝は作詞作曲者の永六輔中村八大の連作先を教えたところ、音楽出版社を知りたいのだと言われ、日本に於ける著作権事業が本格的に問われ始める事となりました。

 同じ頃、渡辺美佐ザ・ピーナッツがカバーしていた女性歌手、カテリーナ・バレンテ夫妻を招聘し、彼女の夫との会話から「ミュージック・パブリッシャー」という概念を仕入れます。

 このような情勢の中、渡辺プロダクションは出版部を作り、更には渡辺音楽出版として独立させました。社長は同じく、渡辺晋でした。

 これが渡辺プロの原盤事業への乗り出しとなり、そうした原盤事業が、ひいては後の日本テレビとの戦争の火種ともなるのですが、その辺に関しましては、この連載が終わった後の記事で触れる予定です。

 

走れエイトマン

 エイトマン主題歌歌手の克美しげるは、この文字通り新進気鋭の東芝ナベプロ所属でした。

 渡辺プロは、上記のように飛ぶ鳥を落とす勢いで、既存勢力の利権も削ぎ落としている超やり手。

 加えて当時の芸能事情ではレコード会社専属制の壁が厚く、所属歌手は他社の音盤では絶対に歌わないという慣習と、表向きはなっていました。(現実には様々な例外が有ります)

 エイトマン主題歌をソノシート化するには、この二大難敵をなんとかしなければならず、まだ27才だった橋本は些か思案したようです。

 そこで先ず渡辺プロの情報収集から始め、渡辺晋・美佐夫妻と共にナベプロを創設した松下治夫制作部長を交渉相手と定めたのです。

 真っ向から切り出したエイトマンソノシートへの克美しげる登板に関して、松下は承諾しました。そして橋本は続けて、「東芝音工に、克美をソノラマに使わせてやってくれと、ひと声かけていただきたいのです」と、些か調子の良い要望を加えました。

 それを聞いた松下は笑いだし、「それをナベプロに言わせようとは、あんたもなかなかいいタマだな。まあ、レコード本部長にはあとで電話をしとくよ」と、これも承諾したのでした。

 後日、橋本がレコード本部長に会うと、「天下のナベプロに言われたんじゃ、こちらは白旗だよ。克美を例外的に貸し出すが、こんな事は今回限りにしてくれよ」と釘を刺しながらも認めたのでした。

 

 これでエイトマンソノシート化も実現かと思われたのですが、原作漫画家の桑田次郎が、既に別会社と音盤化契約をしていたことが発覚しました。

 橋本は衝撃を受けながらも、東芝専属の克美が他社で使えない以上、テレビと違う歌手が歌う事になる。そんな紛い物に手を貸してはいけないと桑田を説得。会社に用意させた30万円を桑田に渡し、レコード会社に金を返して、すぐに契約を破棄してくれと申し出ました。

 翌日、桑田と編集部から、先の契約を破棄した旨の連絡が橋本に入りました。

 こうして完成されたエイトマンソノシートは、大好評のために続編が制作された『鉄腕アトム』の第二集と同時に、昭和39年6月(奥付表記)に発売となりました。

 同じ頃に放送が始まった『鉄人28号』は昭和38年年末には出ていたようですから(奥付39年1月表記)、半年も遅れた事になります。橋本の回想では以上のような事しか書かれていませんが、実際にはかなりの擦った揉んだが有ったのでしょう。

 

 現に、エイトマンソノシートとほぼ同時に、本家の東芝からも本格的なレコード盤が発売されました。それはレコードとシートという住み分けがまだ有りますが、ビクターからもボーカル・エイト歌唱によるシート音盤が発売されました。

 ビクターは、朝日ソノプレスが鉄腕アトムソノシートを発売し始めるのとほぼ時を同じくして、「ビクターミュージックブック」としてハンナ&バーベラ作品のシート音盤化に取りかかっており、『狼少年ケン』に続く国産テレビ漫画の『〇戦はやと』を独占音盤化したりと、この頃、シート音盤市場で朝日ソノプレスと非常に張り合っていました。

 桑田が先に契約していたという会社は、ビクターだった可能性が高そうです。すると橋本(朝日ソノプレス)が払った30万円は無駄金に終わったとも言えますが、どちらにせよ売り上げはソノシートの圧勝でした。

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 エイトマンソノシート帯には、「テレビと同じ作者、歌手、出演者!!」と高らかに表記されました。更に歌手の克美しげるには、「(東芝)」と東芝専属歌手である事が明記されています。

 おまけにテレビ出演陣による音声ドラマまで収録されており、全てがテレビのままに楽しめるソノシートの強みは、しばらくの間、音盤界を席巻しました。

 

 

 

*1:「抱えきれない夢 渡辺プロ・グループ40年史」(財団法人渡辺音楽文化フォーラム)