漫画回顧「愛と誠」
今回の喧嘩稼業
今回は、意外な方面で一気に話が進んでしまった。
なんと、梶原さんが本当に板垣組を乗っ取ってしまった。
しかも、世界編にも大きく関わってきそうな感じである。
しかしなあ。文さんは、屍の有りかは黙っていろと言ってなかったっけ。自分が利用するだけしたら後はいいやって、文さん怒るんじゃないか?
これで文さん死亡の可能性は、かなり低くなった。が、まだ完全に消滅したわけでもないが。
同時に、佐川徳夫が世界編でも戦いを披露してくれそうな含みを残してある。
十兵衛との真の決着が、そこで展開される可能性も出て来た訳だし、喜多的には、睦夫に徳夫の仇討ちをさせる動機が減ったとも言える。
なんだか急拵えの展開のような感じがぷんぷんだが。
一説には、喜多は陰陽トーナメントの全試合の内容を既に決めているなんて話がまことしやかに流されていたが、実は、そんなに煮詰めては決めてなかったのではないか?
喧嘩漫画の系譜(6)「愛と誠」(梶原一騎・ながやす巧)
愛と誠(1) [ 梶原一騎 ]
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これは「純愛山河」と題され、『巨人の星』で親子愛を、『あしたのジョー』で師弟愛を描いたという梶原一騎が、男女の愛を描こうと始めた作品だと自分で解説していた。
だが、その中身はとても恋愛漫画ではなく、実質は喧嘩漫画である。ハッキリと言えば、実弟・真樹日佐夫の「ワル」に影響を受けたような漫画である。
主人公は題名の通り、愛という女子高校生と、誠という男子高校生である。
早乙女愛は幼少期、危険な場所でスキーをしてしまい、あわやの状態となる。
地元の子供である太賀誠が、そこに決死の覚悟で滑り込んで、身を挺して愛を救ったのだ。しかも、この事は絶対に口外するなと言い残した。
代償として、誠の眉間に愛のスキーが刺さり、彼は大きな傷跡を残したばかりか、すぐに傷が元で病気となり、父母の夫婦仲も悪化し、家族はバラバラに。
傷の癒えた彼は、せめて自分が助けた女の子の無事な姿を心の慰みにしようとしたが、愛の一家は忌まわしい場所として、その別荘を去ってしまっていた。
誠の心は荒みきった。
そうとは知らぬ愛は、幼少の頃の王子様の面影を抱き続けていた。
そんな彼女の前に、不良グループを仕切る眉間に傷のある男が現れた。
それが変わり果てた誠だった。
愛は誠から事の顛末を聞かされると、償いとして早乙女家で面倒を見ると申し出、彼を東京に連れてくる。
だが心の荒みきった誠は、早乙女家で手配してくれた名門・青葉台学園に不良旋風を巻き起こし、愛を始めとする早乙女家の悩みの種となっていく。
それでも愛は逃げずに、誠の心と正面からぶつかり合っていく、という話である。
設定だけ取れば恋愛漫画のようにも読めるが、現実の誌面は徹底的に喧嘩漫画だったと言って良い。
愛の誠への気持ちが恋愛感情になるまでの説得力に欠けるし、そういう眼で見たら現実感は微塵も無いと言って良いだろう。
『あしたのジョー』だって、とても世間的な「師弟愛」を描いたものではなかったし、『巨人の星』だって同様である。
どうも梶原の中では、「愛」=「戦い」だったと思われる。
この漫画の冒頭で、「愛は平和ではない。愛は戦いである」というネール元首相が娘に送った手紙とされる文が紹介されるのだが、梶原は心底からそう思っていたのだろうか。
誠の最初の敵は、名門・青葉台のラグビー部主将・城山と、ボクシング部主将・火野の二人。
どちらも誠は、言ってみれば卑怯な策謀で撃沈する。
問題児の彼は次に、「悪の花園」と呼ばれる花園実業高校に転校となる。
そこでは「影の大番長」と呼ばれ、正体不明のまま全校を牛耳る存在が誠と敵対する。
更にその後には、「影の校長」と呼ばれる更に強大な存在が登場する。
誠は、ここでは彼なりに正面からこの二人と相対する。
第三の敵は、ヤングマフィアと怖れられる緋桜団と、その長である鞭の名人・佐土谷峻となる。
佐土谷との戦いは、中でも陰惨なものとなり、誠の最終的な戦いも、この佐土谷が相手だった。
途中、ロッキード事件が起こったのに合わせ、漫画中で強大な力を発揮していた右翼の大立者や、愛の父親である早乙女財閥の長も世間から激しく追及される描写が出て来たりする。
全体的には先に書いたように、「ワル」の影響下に有る喧嘩漫画とワタクシは分類するが、本家の「ワル」がその後は殆ど顧みられないのに対し、梶原作品は、「巨人の星」も「あしたのジョー」も、そしてこの「愛と誠」も、非常に数多くのパロディ作品を産み落とした。
芸能人は物真似をされるようになったら一流、漫画は、パロディを作られるようになったら一流である。
梶原作品がこれだけ多数のパロディを生み出したのには、その作品に異様な熱が籠もっていたからに他ならない。
文学的素養とか、文章力とか、そういうものでは量れない確かな熱が人々の心を動かしていた。
人は必ずしも理では動かないのである。
人が創作物から感銘を受けるというのは、実は元々その人物が生来持っている素養に当て嵌まるものを見出した時だと、ワタクシは思っている。
その伝で言えば、ワタクシが生来持っていた物の考え方の種は、梶原作品によって数多く芽生えさせられている。
この『愛と誠』でも、我が人生の大きな言葉となっている台詞が有る。
太賀誠が、顔に傷を負って傷心の高原由紀を車に乗せ、高速を走っていた時に、ダンプに幅寄せされる。
誠はそのダンプを追いかけ、窓越しに運転手を一撃で伸してしまう。
「執念深いのね」と言う高原由紀に、誠はこう答える。
「同じでかさの車なら、なにをしかけてこようとむしろ度胸をほめてやるがよ。でっけえものに保護され、カサにきているやつはゆるさねえ。ダンプにかぎらず、な」
この台詞を読んだ時に、電撃に近いものを感じた。
ワタクシが生来持っていた感覚と、ビシッと嵌まったからだった。
子供の頃から、同等の人間とは喧嘩も厭わなかったが、自分より弱い者や小さい物に力を振るった事は無かった。
この台詞と出会った事により、その意識はワタクシの中で明確化された。
ワタクシが小林よしのりや長谷川豊、宮台真司等々の「弱者」叩きを許せないのは、この辺の根源的な希求なのである。
強者は、絶対に弱者を叩いてはいけないのだ。
と言うより、それを耐える者でなければ真の「強者」ではない。
梶原一騎も、彼を兄と慕った小池一雄も、その描写は非常に厳然としていた。
ま、現実の梶原はまた別腹だったわけだが(苦笑)。