無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

喧嘩漫画の系譜(7)「あばれ天童」(横山光輝)

  あの横山光輝も、なんの気の迷いか喧嘩番長漫画を描いているのですな。当時もなんだか違和感は有ったが、読んでみると流石の面白さではある。

 ただ、横山漫画ってどれも上品さが漂っていて、この番長漫画にまでそうした空気が流れているのが、なんか可笑しい。

 

 転校生の山城天童は、全国に慕う猛者がゾロゾロいる快童。

 そんな天童たちと番長連合との戦いを描くところから始まるのだが、天童は基本的に喧嘩を好まないし、どんなスポーツ・格闘技でも抜きん出ているので、学園で目立つ美女たちからの注目も一身に浴びるという、言ってみれば万能のスーパーマン

 考えてみれば、これだけ非の打ち所の無い主人公による喧嘩漫画というのが目新しい点だったか。

 少し後の小池一雄原作「ズウ」なんていうのも非の打ち所が無い主人公だったが、あれは喧嘩漫画と分類するにはかなり微妙な線なので除外。

 すると、こういう優等生型喧嘩主人公というのは本当に珍しく、また、横山光輝らしいとも言える。

 だから作品世界も、随所で非常に清々しいものに描かれている。

 

 ウィキペディアでは番長漫画が流行っている頃なんて書かれているが、どういう認識なのだろう?

 この頃はもう、『男一匹ガキ大将』も頓挫していて、『ワル』も終わっていたか終盤。番長なんて存在が大手を振って出てくる漫画など、ワタクシには他に記憶が無いのだが。

 『男一匹~』の悪戦苦闘を見て、自身も喧嘩が得意だったという横山が、「本宮君、喧嘩漫画で余計な事を描きすぎたから駄目なんだよ。喧嘩だけ描いてれば問題無いんだよ」とお手本を示したのではないか、そんなようにワタクシには取れる。

 とにかく一つの大きな喧嘩が終わるとまた次の大きな喧嘩。その度に全国から天童を慕う男たちが加勢にゾロゾロやってくるという連続で、実は意外と『男一匹~』では描かれていなかった、純粋喧嘩漫画というものである。

 物語展開の構造が『バビル二世』に似ている印象を持っていたが、両方を読破した方なら、なんとなくお分かり戴けるのではないか。

 

 そういう風に考えると、「純粋喧嘩漫画」って、実はそんなに数が無い事に気付く。

 『ワル』は格闘漫画と紙一重だが、一応あれがその嚆矢としても、あれには集団喧嘩劇という面はかなり薄い。

 『男組』は世界観があまりに特殊すぎて、あれも「純粋喧嘩漫画」とするには些かの抵抗が有る。

 「番長」という存在を前面に出して、真っ向から「喧嘩」だけを描いた漫画は、実は意外な事に、この横山光輝作品以外にはそれまで無かったのではないか。

 『男一匹~』にかなり影響を受けているとは言え、実に意外な漫画家が開拓者だったのだと、改めて認識した。