挿しす世相史「ロバート・ケネディ司法長官が池田勇人首相と会談」
昭和37年2月5日(月)8時30分、前日に来日したロバート・ケネディ司法長官(時のケネディ大統領実弟)が、信濃町の池田勇人首相私邸に於いて、首相と会談しました。
この頃、アメリカはEEC(欧州共同市場)に色目を使っており、日本もその波に乗るべく、OECD(経済協力開発機構)への参加を希望して、そのための協力を要請しています。
これに対し長官は、日本のOECD参加はアメリカとしても協力を惜しまないとし、実際に昭和39年4月に加盟が実現します。
一方で、日本の綿製品への貿易圧力がアメリカ国内で非常に高まっており、賦課金を課そうという動きがかなり強力に顕在化していました。
首相はこの動きに懸念を表明し、更にAID(国際開発局)の買い付け制限にも失望を表しました。
日本製綿製品の対米輸出問題は、かなりの擦った揉んだが有ったものの、最終的にアメリカは賦課金という強硬手段の矛は収めます。
とは言うものの日本は”自主規制”を余儀なくされるのですが、そのためのアメリカ側の餌が、OECD加盟への協力だったのでしょう。
主にアメリカをお得意さんとしてきた日本が、いよいよ世界経済へと乗り出していった時期と言えましょう。
池田勇人の打ち出した”所得倍増計画”による、重厚長大産業への転換と自由貿易による輸出増大は、このようなアメリカ側の思惑も有って追い風に乗り、成功を収める事となります。
しかし、更に時代を経ると重厚長大産業でもアメリカを追い落とすようになり、日米自動車摩擦などが問題となっていきます。
今般のトランプ政権でも対日貿易赤字を殊更に問題視してますが、戦後に於ける日本とアメリカの貿易関係は、モグラ叩きのように何かの日本産業がアメリカに政治的に攻撃されるという事の繰り返しでした。
しかし、この時のケネディ政権と池田政権には、まだ着手されていない方策が残っていたので、非常に上手い舵取りが出来たと言えましょう。
*1:昭和37年2月5日付読売新聞夕刊