無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

漫画投句「『がきデカ』から見る笑いの革命史」


 

 この漫画は週刊チャンピオンでの連載一回目から読んだ。

 そして、わりとすぐに、今までに無い新しいギャグ漫画だという思いが生まれた。

 それは、こまわりが西城くんの息を止めようと戯れる場面で、「止めてほしいのに~」と懇願するや、西城くんが「頼まれて、ハイそうですかと息を止めるアホがどこにおるか!」と突っ込む場面である。

 いま読めば、なんという事も無い描写だが、これは当時としては非常に新しい感じがしたのだ。

 

 その頃の漫才もノンビリしたもので、突っ込みと言っても「いい加減にしなさい」くらいなもので、大方のボケは軽くいなされて進行していた。

 但し、関西系の舞台喜劇では、わりとキツイ突っ込みというのは古くから存在している。

 例えば『てなもんや三度笠』あたりでも、白木みのるの珍念が、あんかけの時次郎の藤田まことに、かなり罵倒型の突っ込みをしていた。

 しかし、白木みのるは甲高い子供のような声で、背丈も子供のようなもので、それがノッポの藤田を堂々と罵倒しているという姿そのものが、一種の戯画として成立していたという事情が有る。

 やはり通常の場合では、あまりキツイ突っ込みというのは無かった。

 

 尤も、ドツキ漫才というのはあって、言葉以前に態度でキツく突っ込むという形態は普通に有った。頭を張る、時には蹴飛ばすなど。

 だが、これにしてもスラップスティック、ドタバタ要素そのものが笑いの構成要素の一つとして有ったという事で、突っ込みの一形態と言うよりは、叩かれる姿のおかしさを狙ったものだった。

 ギャグ漫画でも似たようなもので、ボケは構わずに場が進行するか、突っ込みという形では無くて、それに対して周りの登場人物が本気で怒るという形ばかりであった。

 しかし、その登場人物が次の場面でハンマーを喰らっているとか、漫画ならではの表現でのドツキ表現は有った。これも、スラップスティックとしての面白さを狙ったものに過ぎなかった。

 

 前述の西城くんの場合、物凄く本気で怒っている顔はしているが、本気で怒っているわけではないという暗黙の了解が読者に成り立っている。

 いくら主人公がハチャメチャとは言え、理由も無く友人の首を絞め、いきなり本気で殺そうとするはずはないという常識が共有されているから、西城くんが怒るのが痛烈な突っ込みとして機能したのだ。

 例えば『天才バカボン』の初期では、パパがとる行動に、周りの人間は本気で怒る。

 それは、もし本当にそういう人間(つまりそういう馬鹿)が居て、そうされたら怒るのはわかるなあという共通認識が有るから、その怒りは笑いへとは繋がっていないものだった(少なくとも当時は)。

 あくまでもパパの行動そのものが笑いの対象であって、突っ込みにあたる部分は、ママの一喝にしても、場を収める役割でしかない。

 

 非常に地味で認識しづらい差ではあるが、『バカボン』と『がきデカ』の笑いには、このような違いが有った。

 もっと単純化すれば、主人公の馬鹿な行動自体を笑うのが過去のギャグ漫画で、『がきデカ』では、主人公の馬鹿な行動だけでは突飛すぎて面白くないものを、西城くんたちが読者に笑える形で調理していたという事になる。

 そして、それも進んでくると、その突飛すぎて従来では笑いの対象とならなかった行動そのものが、笑いの対象となってくる。いきなりでは越えられなかった垣根を、こまわりという存在が認知される事によって、越えてしまったのである。

 そして、同じ少年チャンピオンですぐ後に続いた「マカロニほうれん荘」という漫画が、「がきデカ」によって均された土地で破壊ギャグを奔放に駆使し、更に「がきデカ」の方もそれに感化されていった。

 これらは後に出てくる不条理系ギャグの地均しという役割も担っていた。一言に言えば、「赤塚(不二夫)前、赤塚後」が有るように、「がきデカ前、がきデカ後」という見方も、ギャグ漫画の世界には成立する。

 

 この「がきデカ」的役割を現実のお笑いの世界で成し遂げたのが、ダウンタウンである。

 彼らは、当初は松本のこねくり回したネタで漫才をしていたが、まだ浜田の突っ込みが磨かれていなかったため、面白さが存分に引き出せていなかった。

 やがて浜田の突っ込みが、かつて見た事の無い速さと切れを見せだしたのに伴い、松本の突飛な思考のネタが、浜田の突っ込みによって笑える形に調理して差し出されるようになった。

 そして、関東でも大ウケするようになった。

 大ウケしてからは松本の独特な思考も見ている側が受け入れる事が出来るようになり、『ガキの使いやあらへんで』などで、どんどん不条理系のネタも出してくるようになったが、見ている我々は、それらを本当に面白いと感じる事が出来るようになっていた。

 

 ダウンタウンの不条理系を以て、日本の漫才の類型は、基本的な形としては出尽くしてしまったと言えよう。その後に出て来たものは、それまでに出たものの変形や組合せとなってしまう。

 ダウンタウンはワタクシと同年代。つまり、『がきデカ』を理解できた最年少世代として、意識しようとすまいと、笑いの根っこの部分にこの漫画の影響が根差しているのは間違い無い。

 漫画と漫才、二つの「漫」で不条理系が受け入れられる土壌を耕した画期的な存在が、「がきデカ」「ガキの使いやあらへんで」と、どちらも「ガキ」繋がりなのも面白い符合である。 

がきデカ 第1巻

がきデカ 第1巻

 

 

 8/4 追記

 なんと、いま知ったのだが、偶然にも今年が山上たつひこの漫画家50周年なのだという。