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無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

恥恥放談「退位の大意とは」

社会 恥痴呆談

 ここのところ大きな報道が続いていて、どれも語りたい事は山と有るのだが全部書いている時間も無く。

 で、悩みながら表題の事柄について書き始めている次第なのだが。

 

 ワタクシがこの第一報を聞いたときに先ず思ったのは、1.確かに80を過ぎての公務はかなり無理が有るので身を引かれる事は謹んで拝したい、2.しかし摂政を置かれるのではなく「退位」とは……という二点であった。

 

 更に、「生前退位」の「生前」という言葉は非常におかしいと感じた。現に生きている人物に「生前」という言葉を使うのは変だろう。何故みな疑問を感じずにそのまま使っているのかと思ったら、竹田恒泰が苦言を呈していた。

 「生前退位」という言葉は、不敬と言うよりも、単純におかしな言葉である。まあ「平成天皇」というのと同じ感覚の言葉ではあるから不敬には違いないが、それ以前に一般人の次元でも誤った使い方である。

 なるほど、「譲位」ね。「君主が位を譲ること」ですから、当方もこの言葉を使う事とします。

 ちなみに「生前」は、「故人が生きていたとき」。本当に、昨今は新聞記者の国語力が往時とは比較にならないほど劣化している。

 敢えてその意味で言葉を作りたいなら、「存命中退位」とかになるのだろう。だが、どちらにしてもおかしい。「退位」は存命中でなければ出来ない事だから。

 だから「退位の意向」、もしくは「譲位の意向」で良いのだ。

 

 言葉の問題はさておき、なぜ摂政という話ではなく退位、譲位となるのか。ここが、この話の肝である。

 譲位という事は、現在の皇太子殿下が天皇になられるということ。

 そして皇太子の座をどうするかという問題となり、退位を認めていない事も含めての、皇室典範改革の話となってくるのである。そこに女性宮家の問題も、当然入ってくる。

 先ず、自由意思による退位・譲位をどのように規定するのかというのは、これは非常に難しい問題である。

 もし、皇太子も、次の継承順位の存在も、更にその次も自由意思によって就位を辞退したらどうするのか。紋切り型で承詔必謹で済ませようとしている連中は、そういう事態を想定しないのだろうか。そんな事を考えるのは不敬だという、お定まりの思考停止か。

 

 昔、たしか昭和天皇のご危篤の時だったと思うが、朝まで生テレビ!で田原総一朗が「天皇」を扱いだし、皇族には職業選択の自由も無いとか言っていた。

 なんでもかんでも自由が尊いと考えるのも未熟だが、実際問題として日本人は、この問題とは向かい合っていない。

 現在のご皇族には、一般的な自由は何一つ認められていない。という見方もできない事は無い。

 ワタクシに言わせればチンケな話だと思うが、現今の日本の状況を見るに、将来にわたっても、こういうチンケな人間が皇族を占めないとは言い切れないものも感じる。

 であれば、譲位・退位を認める場合、復位も当然認められなければならない。

 でなければ、狭い範囲だけでは、不自由な皇族など御免だという考えで埋まってしまう可能性も有る。少なくとも制度というものを練り上げる際には、様々な場合を想定しなければならない。

 退位の自由もあれば、復位・復族の自由だって認めなければおかしいだろう。

 

 だが今回の場合、本来なら皇太子殿下に摂政を務めて戴く事で問題が無いように思う。

 女系宮家などという姑息な手段は、いま現在だけを切り取れば必要なように感じるかもしれないが、将来的には宮家の数が膨れあがりかねない愚策である。

 もし万一、男系宮家が無くなったなら、それこそ復位・復族規定を設ければ解決できるだろう。それでも枯渇したときに、初めて女系を考慮すれば良い。

 女系を頑迷に認めない人間も、復位・復族を頑迷に認めない人間も、どちらも皇統弥栄が最優先でないという点で同罪である。これはワタクシは、かなり広い範囲に向けている。

 問題はどちらが優先されるべきかという話で、ワタクシは、壱千年以上保たれてきた男系継承を継続していくべきと思っている。

 縦軸を意識せずして、なんの保守なのか。

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