挿しす世相史「川上哲治が日本プロ野球初の千打点を記録」
昭和29年5月22日(土)、読売ジャイアンツの川上哲治選手が、中日球場での対中日戦に於いて日本プロ野球史上初の通算千打点を記録しました。
初回に3点を挙げた読売は、1点を返された3回に猛攻。千葉、南村の連打の後、史上初の通算千打点に迫っていた川上選手が、3ランホームランを放ち、見事に通算1001打点を記録しました。
その後も読売は手を緩めず、3回は都合9得点。更に追加点を重ね、試合は19対1という、川上選手の記録に華を添える記録的な勝利となりました。勝利投手の中尾は完投で4連勝。
川上選手は5打数4安打6打点という猛打ぶりでした。
この夜の勝利で、読売は2位の中日に1.5ゲーム差を付けて首位を守りましたが、この年は結局、魔球フォークボールを操る杉下茂投手の大活躍により、中日ドラゴンズが日本シリーズまで制することとなります。
川上選手は実働14年目での記録達成でしたが、日本プロ野球の1リーグ時代は試合数が極端に少なかったため、これでも当時としては傑出した速度でした。
当時の紙面によると、当時の通算打点上位は次のようなものです。(試合数 打点数)
- 川上(読売) 1385 1004
- 藤村兄(阪神) 1290 984
- 青田(松竹) 1120 750
- 小鶴(広島) 1145 697
- 西沢(中日) 1185 689
川上は昭和13年からの選手生活でしたが、藤村選手はプロ野球開闢の昭和11年以来の選手。しかし、藤村は昭和14年から18年までの5年間を兵役で潰しており、川上は同様に、昭和18年と19年が潰されています。従って、この時までの実働年数では2年後輩の川上の方が実働では1年長いので、試合数も藤村より多くなっています。
川上のこの時点での通算打率は.319ですが、藤村の方は記載が有りません。試合数から考えると、この時点では藤村の方が打率では上位だったように思えます。しかし最終的には川上が晩年を引き摺らなかったために.313で終えたのに対し、藤村は最終5年でズルズル通算打率を落とし、なんとかギリギリ通算3割丁度で現役を終えました。
終身打率(.313)でもかなり長い間(張本勲の現役引退の昭和56年まで)、首位の座にいた川上哲治は、正に打撃の神様と呼ばれるに相応しい選手だったのです。
*1:昭和29年5月23日付読売新聞