無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

漫画投句「サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR」

 ワタクシの知らないうちに刊行されていた、サイボーグ009の完結編である。

 長かった。

 秋田書店のサンデーコミックスで「天使篇」を読んでから約40年。

 その間に、もうとっくに諦めていた。

 そうして、そのうちに石ノ森章太郎も亡くなってしまい、とうとう天使篇は完結せずかと、些か落胆したものだった。

 それが、石ノ森の遺稿を元に彼の倅である小野寺丈による補作を経て、ついに完結編が発表されていたのである。

 全巻セットで入手したワタクシは、ワクワクしながらページを繰って、ほとんど一気に全5巻を読んでしまった。 

 

 読み終わっての感想は、「うーむ…」としか言い様が無い。

 先ずは、これだけの大作を仕上げるのは、確かに困難であったろうという納得。

 生きて完結を読む事が出来たという安堵。

 でも、何かが違っているのではないかという違和感。

 そんなものが綯い交ぜになって、まともな感想というものが浮かんで来なかった。 

 

 特に、007の話がほとんど解き明かされておらず、消化不良に感じたが、ウィキペディアを読むと、そもそも石ノ森の遺稿には007の話が残されていなかったというのを見て腑に落ちた。

 では、なぜ仕舞いきれない風呂敷を自分の手で広げてしまったのか、という謎は解けぬままであるが。

 あとは、冒頭の話、病床の石ノ森と登場人物たちとのやり取りだが、あれも石ノ森の遺稿に有ったものだろうか。それとも大衆迎合した話の進め方を小野寺が創作したものなのだろうか。

 

 と言うのは、その後の話があれだけ壮大なのに、冒頭のその進め方が陳腐な、在り来たりすぎるものと感じて仕方ないのである。

 また、未来図を読者に与えてしまうという、致命的とも思える作劇的な欠陥でもある。あまりネタバレで書かないようにしているから、どこがなんなんだか判らないだろうが。

 これらの事から、恐らく、作者と登場人物の会話部分は小野寺による(それも凡庸で蛇足な)付け足しなのだとワタクシは考えている。

 

 009が本当の神々、キリストや仏陀と戦闘する場面には肝を冷やしてしまったが、キリストを描くならマホメットを描かなければ片手落ちというものだろう。

 尤も、そんな漫画が出版されたらシャルリ・エブドなんて惨状では済まなくなるだろうがね(苦笑)。

 アラーの神、ヤハウェ日蓮など、地球上にはまだまだ神々がいて、ワタクシも彼らには時に怒りに似た感情を持たぬでもないから、ああいう表現を思索するというのはわかるのだが。

 それらもまとめて009が退治しちゃったら、出版社一つが消し飛ぶくらいでは済まないよね。

 

 そして最後。

 あんな最後を描くために、あんな最後を読むために、我々は何十年も待ち続けていたのかという思いがワタクシに過ぎった事は、否定できない。

 石ノ森が見せたかったのは、結末よりもむしろ、途中の部分だったのだろう。

 地球上に見られるありとあらゆる人間には不可知な事象が、実は一つに繋がり、それは人間が「神」と呼ぶ者の司る事なのであるという考えを、なんとか一篇の話としてまとめたかったのではないかと思う。

 

 ワタクシも高校生くらいまでは、つのだじろう等に騙されて(本人は騙した意識は皆無だと思うが)オカルトと呼ばれる事に結構な興味を抱いており、やはりその手の事は考えたからわかるのである。

 オカルトに興味を持つ者は、概ねそうした思考に至るのではないかと思う。

 そういう観点から行けば、なかなか興味深い展開で、007の部分を除けば、その労力に免じて、まあまあ面白かったと評価しても良い。

 けれど、なんと言っても物語というものは、最後で決まるから。

 終わり良ければ全て良しだから。また、終わり悪しけば全て悪しだから。

 

 これも恐らくだが、石ノ森の遺稿には、最後をどうするかが無かったのかもしれない。

 それで小野寺も、考えに考え抜いて、あの結末となったのだろう。

 だから作中で、ギルモア博士が石ノ森にどうしたら良いかなんて質問をする場面などが出来てしまったのではないか。

 

 石ノ森章太郎の世界は、善と悪とが有って初めて人間だという世界観ではなかったのか。つまり、人間肯定である。

 善による悪の絶滅は、悪による善の絶滅と本質が同じなのである。

 ワタクシは、そうした観点をワタクシに与えてくれた石ノ森の物の見方が好きだったのだ。

 だから、「うーむ…」と首を捻らざるを得ないのである。

そもそも「竜王」って名前からしてどうなのさ

竜王って格下の名前じゃね?

 読売新聞が将棋十段戦を廃止して、「竜王戦」って打ち出した時には、なんとネーミングセンスゼロの会社なのだろうと思ったけれどね。

 ロールプレイングの世界かね。ラノベっぽい。風格が無い。そもそも「竜王」は、「王将」よりも格が下だよね、名前だけ取れば。

 ただでさえ積み重ねた「十段戦」の歴史を封印せざるを得なかった読売側は、新たに第一期からとなる竜王というタイトルに権威づけするために、賞金額を斯界最高額と設定した。

 その風格の無さを金ずくで打ち消しに掛かり、有ろう事か「名人戦」より格が上という事になってしまったのだ。

 尤も、現実には、その歴史・伝統に加え、歴代名人が護ってきたその就位の至難さに裏打ちされた「格」というものは冒しがたく、金ずく竜王より名人の方を重んじる人間は多いのではあるまいか。  

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そんでこんな災難に遭うという

 竜王戦の方も年数が経ってきて、歴代竜王、特に渡辺明の九連覇の偉業などで、かなり格が高められてきている。

 そんな棋戦序列一位という竜王戦で、決勝進出者が直前に交代を余儀なくされるという、異例と言うにはあまりに驚天動地の事態が生じた。

 

   棋士が将棋ソフトの手を参考にするなど、二昔前にはとても想像の出来ない事だった。

 三十年前だと、ただコンピューター側が駒を規則通りに動かすというだけで、「将棋」と銘打って数千円のソフトとして販売していたくらいである。

 そんな将棋ソフトがどのような歩幅で前進してきたかを書いている稿が有った。

 なるほどね。今では、プロ側もコンピューターには勝てないと思っているという事かい。

 

 で、戦術検討用にそうした将棋ソフトを使うという事は皆やっているのだろうが、よりによって対局中にスマホを用いて、これで次の一手を決めていたのではないかと疑われたのが三浦弘行九段という事ね。

 この橋本八段つーのは言行にかなり問題ありそうなので、ワタクシは話10分の1で聞こうと思う。

 それでも一千万%黒という事か(笑)。しかし「モラル」をアンタが言うかねと(苦笑)。

 ともあれ、よりによって斯界序列一位の棋戦決勝の直前で、将棋連盟として決定戦進出者を失格、のみならず出場停止にまでするくらいであるから、一千万%はともかく、限りなく100%に近い心象を多くの棋士が抱いているという事なのだろう。

 

これも時代というものか

 麻雀界では、やはり斯界一等と思われた最高位戦という戦いの決勝に於いて、対局者同士の談合とされる問題が生じた事が有る。

 その時、一対一で闘い、しかも麻雀と違って完全に実力で勝敗の決する囲碁や将棋では絶対に有り得ない不祥事だとワタクシも感じたが、それから数十年、まさかこんな形で将棋界に不祥事が起きるとは想像もしなかった。

 

 将棋のタイトル決勝では各自の持ち時間が4時間以上も有り、その時間は基本的に自由に使えるはず。

 例えば気分転換に外出しても良いはずだし、その場合に、解説書を読む事だって昔から出来たはずである。

 勿論、多くの棋士にとって解説書など参考になるものではなく、覗いたとしても気分転換くらいのものだったろうが。

 この「気分転換」に外出は認められるべきというのが棋士間で共有されていた感覚だったのだが、スマホ持ち込みと共に、当然ながらこの点も今回、ハッキリと禁止事項となるようだ。

 

 そもそもタイトル戦の決勝に「気分転換」の時間を持ち込もうというのも、プロの考え方としては甘かったのかもしれない。

 プロ野球選手だって3~4時間は試合に集中するわけだし、束の間だけ息を抜くのは、その試合場の中で上手に適度にやらなければならい。試合の最中に球場の外をブラブラしていたら、ファンに糾弾されてしまうだろう。

 まして棋戦は数千万、竜王戦だと四千万!を超える賞金を手にできるわけで、少しくらいの不自由は文句を言えないのではなかろうか。

挿しす世相史「両陛下、戦後初めて靖国神社参拝」

 昭和27年10月16日(木)、昭和時代の天皇・皇后両陛下が、17日からの秋の例大祭を前に、七年ぶりに靖国神社を参拝されました。

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 両陛下のご参拝は昭和20年以来で、戦後は初めての事でした。

 これは日米講和の実現により成就した事で、軍人遺族にしてみれば待ち望んだ事だったに違いありません。

 

 昭和50年以来、また、長く天皇が参拝されない時期が続いておりますが、この事例から察しますに、戦争相手国、取り分けアメリカへの配慮が有るのではないかとワタクシは思っております。

*1:昭和27年10月16日付読売新聞夕刊

澱痛でござる

 かの東京五輪にまつわる種々の不手際以来、電通の神通力が衰え気味なんでしょうか。

 

 それにしても、今時これだけの超大企業で、ここまで「コンプライアンス」とやらをガン無視した会社も珍しいんじゃないでしょうか。

 おそらく、戦中戦後の体制が、悪い意味で残ってるんでしょうね。

 何故そんな陸の孤島然としてしまったかと言えば、それこそ、その威勢の故に、なんでもかんでも罷り通っていたからでしょう。

 経済の成長ばかり追い求めて、質的な成長は蔑ろにされていたんですね。

 

 それにしても、これ、超勤100時間って次元じゃないでしょう。

 更に酷いのは、手前らで身支度を調える時間すら奪っておきながら、女子力が無いだのの揶揄をするという。

 新人の女の子が、それに不快感を表せるはずが無い。

 抵抗できない相手に笑いながら平手打ちを食らわせ続けていたに等しい所業で、非常に許しがたいものです。

 

 この女性が勤務していたらしいインターネット広告の部署は、トヨタの逆鱗に触れて、不正請求も暴露されました。

 凄いですね。

 タコ部屋同然の労務環境で労働力を搾取して、更に客に請求する金まで水増ししてたんですよ。

 これだけの極悪企業が、まるで超一級の大企業としてふんぞり返っている世ですから。まともなはずがありません。

 

 その不正請求が暴露される過程について、やまもといちろうが面白いことを書いてます。

もしかしたら、文句を言っても事態の改善がまったく進展しないことに腹を立てたクライアントの誰かが国内メディアではダメだから海外メディアに事の次第をリークして外圧をかけたという可能性もあったりするのでしょうか。

 

 きっと、そうなんじゃないかな。誰かつーか、トヨタでしょ(笑)。

 トヨタくらいの大物になって、初めて電通に喧嘩売れたんでしょうね。

 喧嘩っつーか、成敗なんだけど、今回は。

 

 べつにネット広告時代の前から、昭和時代でも、テレビの広告でも、こういう問題は有りましたね。

 契約した数のスポットを流してないんじゃないかとか、誰も見てない時間帯にまとめて流して数字だけノルマクリアしてるんじゃないかとか、色々。

 つまり、広告依頼している側も、当たり前ですが査察しているんですね。

 

 電通の罪深さは、これが初めてではないという事です。

 以前にも過労死させていて、その時に表向きは塩らしいことを言ってるんですね。

 だから今回も表向きは塩らしいことを言っていても、まったく信用できないという事です。

 立件、厳罰、当然ではないでしょうか。

朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(35)

冒険少年シャダー

 日本テレビで18:35から10分間の帯番組で、月曜から土曜まで毎日放送されていた枠です。

 毎日少しずつ話が進み、土曜で一区切りついて、また月曜から新たな話が始まるという形式でした。昭和40年代には、こうした形式の番組が幾つか存在していました。

 シャダー役の北條美智留は、劇作家・北條秀司の娘で、昭和32年に『名馬チャンピオン』の少年、更にはテレビ史に残る『名犬ラッシー』のジェフ少年の声を演じたのが、この世界での始まりでした。*1

 テレビまんがでは『〇戦はやと』の隼人役も演じており、往時は「少年役ナンバー1」と称されていたのでした。

 

 テレビ版OPは、この北條美智留の「冒険少年シャダー!」という叫びで始まります。これは前番組の『とびだせ!バッチリ』からの踏襲で、制作の日本放送動画の作品は、何故か一貫してこの形態で始まってました。

 作詞として寺山修司の名が表示されているのが、その世界では有名な話で、『あしたのジョー』より前の、寺山がテレビまんがの作詞をした最初なのではないかと思われます。

 とにかく全てのテレビまんが主題歌をソノシートにしてしまおうといった風情だった朝日ソノラマは、このような、まったく注目を浴びていない作品でもソノシート化しました。

 歌手の鈴木忠が専属していたのか、東芝もレコードを出しています。

 以前はあまりテレビまんがの音盤に乗り気でなかった東芝あたりも、この時代には完全にテレビまんがは商売になると認識していたのでしょうが、あまりに作品が地味すぎました。

 

 

 

*1:昭和44年10月30日付読売新聞

文学賞(笑)

 ボブ・ディランノーベル文学賞ねえ。

 しかし、歌手が歌う歌の歌詞って「文学」なのかね。

 ま、ノーベル賞なんて特に近年はトンデモ賞になってしまってるからね。

 青色発光ダイオードなんか、その最たるもんで。だって、その大元の発光ダイオードの発明者が貰ってないのよ。

 

 そもそも経済学とか文学とかの賞なんて、雰囲気で決めてるだけだろうからね。

 勿論、平和賞の気狂いっぷりは、近年ではオバマ受賞の時に遺憾なく発揮されたし、ワタクシはもう、興味の対象ではないね、あんな賞。

 

 それにしても、こんな選出になっちゃうと、これから世界中の音楽家の詞まで選考対象になるのかい。

 そもそも対象の「文学」作品って、誰がどういう形式で、どのようなものを選んでるんだろうね。

 なんにもわかんないでしょ。

 おら、そんな訳のわかんない賞はどうでもいいだ。

昭和唱和ショー『火災報知器』

 その昔、東京の街中に火災報知器があちこち設置されていたのをご記憶の方はいますかね。

 ワタクシは、言われれば有った気がするという程度の記憶しか残っていないのですが、年長の者と話していて存在を知らされ、調べてみました。

 すると、写真も見つかりました。

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 この記事は、上野動物園にいたチンパンジーのスージーが、春の火災予防運動に協力して、火災報知器による通報実習を行った際のもの。

 

 しかし、こんなものが街中のそこらに立っていたのですから、当然、いたずらも引っ切りなし。なんと、通報の6割がいたずらだったという記事も有ります。

 子供のいたずらも多かったでしょうし、実際、ワタクシにこの事を教えてくれた者も、友人がいたずらで押したら、あちこちから消防車が6台来て大騒ぎになり、その子の母親がえらく怒られて平謝りしてたと言ってました。

 しかし、困ったことに、いわゆる大人でもこれをやる者が後を絶ちませんでした。

 酔っ払いが、酒の余興か度胸試しか知りませんが、これをやってしばしば新聞沙汰になってます。

 しかし、それをも越えて質の悪かったのが、そうやって他の場所に消防車を呼んでおいて、また他の場所で放火するという輩で、これなどは凶悪犯としか言えません。

 

 このように、度々徒労を余儀なくされた、問題の多そうな街中報知器は、何故それでも無くならなかったのでしょう。

 件の人物が回想しますに、一般家庭に電話が普及した頃に無くなったと言われ、なるほどと思いました。

 そうです。昔は各家庭に電話が無かったため、一刻も早く火災通報をしようとしても、電話という手段は不可能だったのです。

 そのため、消防署直通の報知器が各所に設置されていたという事なのでしょう。

 これは東京での話ですが、日本全国で有った物なのでしょうか。

*1:昭和43年2月17日付読売新聞