無駄じゃ無駄じゃ(?)

すべては無駄なんじゃよ

昭和唱和ショー「木造校舎」

 地方毎に差の有ることではありますが、東京23区の場合、昭和四十年代半ば頃に小学校に通っていた人間までが、木造校舎で学んだことが有るのではないかと思います。

 ワタクシが居たのは東京の南端ですから、中央部はもっと早く鉄筋化されていたと思うのですね。北端部は同じ様なものだったのかもしれませんが。

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 ワタクシのいた小学校では、ワタクシが小学三年の時まで木造校舎を使っておりました。四年になると新校舎になるのが、とても待ち遠しかったものです。

 子供の頃は、とにかく新しい物が好きですし、綺麗で格好良いという認識でした。と言うより、木造校舎はたしかに見た目があまり綺麗ではなかったし、特に便所などが汚かったですね。

 壁などにシミや汚れも多く、夜になるとあのシミが人の顔に見えるとか、怪談じみた話も多かったものです。

 

 机や椅子も木製で、特に机は、ワタクシも含めた子供たちが落書きを彫り込んでいたりして結構凸凹で、試験の答案用紙に下敷きを敷かないと、鉛筆で紙に穴を開けてしまいました。

 椅子はワタクシも含めてぞんざいに扱われるので、これも結構ガタが来ており、斜めにして座ると壊れないか心配になりました。

 普通に座れば良いわけですが、子供の頃のワタクシは落ち着きのない方で、椅子を後方にロッキングチェアのようにブラブラさせながら座っていたので、年がら年中ガタンと後ろに倒れ込んで教室を騒がせてました。

 

 新校舎になると机も椅子もスチール製となり、椅子の脚も角が丸っこくなっていたので、より揺らしやすくなりました。が、より滑りやすくもなったのか、これまたよくガタンと倒れ込んでました。

 そういう行儀の悪い子は、組に多くて三人まででしたね。女の子にはそういうのはいませんでしたし。

 面白いもので、成績の悪い奴はそういう粗相はしない。当時は勿論そんな事は気付いていないけれど、これを書きながら、そう思い至りました。

 そういう粗相をしていたのは、学業の成績が良い奴か、運動に自信が有った奴。

 

 きっと成績悪い奴というのは、あまり目立ちたくなかったのでしょうね。ワタクシなんぞは、昔はそうして目立ちたがりでしたが、今は底辺労働者ですので、確かにあまり目立ちたくないし。

 ガタンと倒れても、木造の場合は床が木ですから、音も鈍いしそれほど痛くもない。

 新校舎の場合は、とにかく音が響いた。から、教室中の人間が物凄く驚くのです。やった方も、その反応の方に驚いたり。

 

 ワタクシの三年時までをもって、木造校舎は取り壊され、全ての生徒が鉄筋校舎にて授業を受けるようになりました。

 その時は、今度の新入生はいいな、最初から新校舎でと思っていましたが、今にして思えば、木造校舎を経験していて良かったと思います。

 あの記憶の中での温もりと言いますか、得も言われぬ郷愁は、新校舎には有りません。

*1:昭和42年2月16日付読売新聞

【喧嘩稼業仕合予想】 芝原剛盛 対 上杉均 を予想する

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 いよいよBブロックの予想に入るのだが。

 合気道対空手という事で、非常に注目したい一戦となるこの試合、取り分け楽しみにされているのが、合気道の技や強さをどう表現するのかであろう。

 形あるものは真球でも倒すと豪語する芝原ではあるが、倒しただけではこの仕合、どうにもならない事は、工藤が梶原の卜辻を喰らった時の反応にも現れている。

 柔道となって去勢された投げ技であるが、本来は、関節を決めながら投げて折ったり、頭から落としたりして、如何に相手を効率的に傷つけるかが武芸というものだったはずである。

 合気道は少ない力で効率的に相手を倒す技であろうから、柔道と違い、そういう面での退化はしていないのではないか。

 

 問題は、上杉の煉獄だろう。

 完璧な煉獄を使える上杉が、上手くその体勢に入ってしまえばそれで終わりなのであるから、試合展開は、その一手目を如何に入れるかの駆け引きとなる。これは上杉に限らず、煉獄を使いたい場合の肝ではあるが。

 だが、大抵の手出しは芝原に逆を取られてしまうだろう。

 そもそも上杉の売りは煉獄と捌きであるが、捌きは合気の方が専門であろうし、煉獄に至っては富田流の二人も使うという事で、筋書きとしては残しても面白味が無い。まして、本家本元の山本陸まで控えているのだから。

 このように考えると、序盤はお互いに警戒して捌き合い、観衆の目を惹くも、上杉が煉獄を決めようとして乾坤一擲放つ打撃を、芝原が合気で逆を取り、投げ飛ばし折って顔面を踏みつけて終わると見ている。

 そして二回戦で、柔道王・関修一郎が芝原を投げ飛ばせるかどうかが、大きな呼び物となるだろう。

麻雀「プロ」の説得力の無さ

札幌記念

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 駄目だな。かすってはいるが、来ない時は来ない。

 だが今回は、同僚がやってくれた。

 

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 見事に一点買いで6万超獲得。

 買う前にはワタクシに二万とか言っていたから、1万6500円は少なくとも貰えるだろう。

 彼はここのとこ頗る調子が良く、勝ちだしてからは十万以上の勝ちだな。

 

 一時はまったく勝てなくて、ワタクシなんか、彼の買い目を外して買っていたものだが(笑)、やはり運には波が有る。

 そして、片方が良好だともう片方は駄目なもので、ワタクシの方が落ち目である。

 ま、ワタクシは好調の時だって二三千円の勝ちが精々なのだが。

 

 

AbemaTV麻雀チャンネル

 賞金総額一千万のタイトル戦を進行中のAbemaTV。

 

 二十四時間麻雀対局を見られるチャンネルもある。

 

 或る対局を見ていたら、想像は出来ていたが、今はプロの数がウジャウジャ増えているので、中にはとてもプロと呼びたくない技量の持ち主が出ていてウンザリする。

 出るチー出るポンで手を進め三副露して、なお手がバラバラ。あげくリーチが掛かって降りてしまうという事を、一局に二度も三度もやっていた。

 

 中学生か。

 苟もプロを名乗る以上、摸打に説得性を意識しない人間に存在意義は無いだろう。

 こういう人間が場を支配すると、場が白けること夥しい。そしてプロの場が白けるということは、観客がいなくなるという事を指すのだ。

 四人で戦う麻雀に於いて、場違いな人間が一人いるだけで、局面は素人次元となってしまう。まして二人以上いたら、もうその対局は見る価値の無いものとなる。

 まさか麻雀プロ団体日本一決定戦には、こんな初心者が一人も出ていないことを願うが……。

挿しす世相史「『金色夜叉』のお宮さん失踪」

 昭和23年8月21日(土)、尾崎紅葉作『金色夜叉』のヒロイン、貫一・お宮で有名なお宮のモデルとされる女性が家出して行方不明だとして、家人から捜査依頼が警視庁に出されました。

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 夫人は、元貴族院議員の大橋新太郎未亡人の須磨(72)と報じられました。

 金色夜叉と、これら実在の人物の実像につきましては各自検索で調べて戴くこととしまして、年老いてから本当に、ダイヤモンドに目が眩みといった情況が報じられているのが因縁的です。

 生さぬ仲の子を含め、三人の子供たちに宝石類などの財産を巻き上げられて無一文だと書き置きを残しての失踪だったようですが、年齢的にも老人の症状だった可能性も有り、その詳細は不明です。ただ、あわや裁判というところまでは行っていたらしいですが。

 

 五女であり、須磨の実子としては長姉となる娘が残した言葉としては、母のダイヤモンドを売って生活費に充てていた事は事実だが、全部でどれくらい有ったかは覚えていない、失踪は誰かの書いた筋書きだと思うとしておりました。

 そのように、世間を騒がして同情を引き、自分に有利に物事を運ぼうとする狂言という見方も有り、今であれば結構なワイドショーネタとなっていたでしょう。

 とにかく、お宮さんがダイヤモンドや宝石類に囲まれた生活だったのは間違い無いようです。

 

 そのように騒がれるのを怖れていたのを、失踪5日目になって仕方なく届け出たのですが、8月23日になって、音羽護国寺で発見されました。

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 失踪時の報道で、年齢は72だが50代にしか見えないとされた美貌は、確かに写真でも窺い知れます。更に大きく載せられた若き日の写真には、左手に二つのダイヤが嵌められていると有ります。

 

 この騒動で「お宮のダイヤ」が再び世に脚光を浴びたわけですが、熱い視線を注いでいたのはご婦人方だけではありませんでした。

 なんと、実在すれば時価一千万と目される数のダイヤの相続問題だけに、財務当局も虎視眈々と報じられたのでした。今の価値ですと、数億円という感じでしょうか。

 そんなお宮さんは、この騒動の翌年、わずか半年後に亡くなったのでした。

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*1:昭和23年8月22日付読売新聞

*2:昭和23年8月24日付読売新聞

*3:昭和24年1月27日付読売新聞

逆徒の実例

 尖閣近辺に中国船がワラワラと寄って来ていて、対処しあぐねているようだが。

 あれはもう何年前になるだろうか。たしか民主党政権の頃だと思ったから7年前になるのか、ネット上で、中国が日本を侵略するなんてことが有るわけないだろうという人が、その頃は結構いたものだ。

 いかにも泰平極楽気分の日本人らしい物の考え方だが、中華人民共和国の国境闘争の歴史を少しでも知っていたら、正常だったらとてもそんな認識は持てまい。

 ワタクシは非常に優しさを含んだ厳しさで(笑)、あなたの書き込みは数年後に恥を晒してしまうことになりますよと指摘してさしあげたものだ。

 今その人は、現状をどの様に認識しているのだろうか。

 

 少し前にも、現状は局所的には軍事衝突も有りうると書いたけれども、日本は軍事を用いる気は無いから、中国の姿勢次第で遠からず竹島のようになってしまうのがオチである。

 本当は、ガス田にしてもなんにしても、中国と歩み寄った解決法が有るはずなのであるが、例によってアメリカ様に却下されているのに違いない。

 太平洋の利権は日本のものではなくてアメリカ様のものであるから、それを少しでも減らすような事を勝手にするなよという事なのだと思う。

 だからと言って、米軍が先頭切って中国船を蹴散らすかと言ったら、それも現実味が無い。

 

 改憲の気など皆無と以前からワタクシが喝破する安倍晋三参院選大勝で何か動いてますか彼?)を、必要以上に過大評価して怖れている人々もいるが、そんな張り子の虎より習近平を警戒しないでどうするのだと。

 中には、尖閣なんて取られたって仕方無いと思う人もいるかもしれない。

 だが、中国が狙っているのは尖閣までではない。沖縄だって、公言しているわけだ。

 ワタクシは、沖縄の自治は沖縄の人に任せても良いと思っているが、仮に中国が沖縄を支配下に置いたとして、それで終わりではない。 

 取れると思ったら、どんどん蚕食するのが中国である。

 

 従って、尖閣防衛というのは単に島嶼地域の防衛という話にはとどまらない。

 今(と言うか7年以上前から)、中国は日本とアメリカの出方を測りながら、取れるところまで行ってみようと確認中である。

 アメリカはどのように、どのくらいまで介入してくるか。日本はどのように、どのくらいまで抵抗する気が有るのか。

 隣接する数々の大国と諸々の国境紛争を経験し、二大大国当時の一方の雄・ソ連を相手に引かなかった連中である。

 彼らはアメリカを最後の敵と捉え、周到に力を貯めてきたのだろう。そして非常に慎重に、力関係を測っている。

 その長期展望は、日本人も見習うべき点が非常に多いのだが、きっと多くの日本人は、まだ中国をナメていると思う。

 

 だから、その民主党政権当時に小沢一郎が、畏れ多くも天皇陛下を政治利用し、やんわりと拒絶していた(と思われる)宮内方面の意向を完全無視して、政権を掌握する直前の習近平に拝謁せしめてしまった。

 おそらく習近平としては、天皇の威光を自分の権力浮揚に結びつけたかったのだろう。宮内側としてもそうした政治利用を怖れて、やんわりと拒絶していたのであろうに、逆徒・小沢一郎は、力尽くで会見を実現させてしまったのだ。

 きっと、中国は自分たち民主党にいい顔をしてくれているという事で、なんの警戒心も無かったのだろう。日本の政治家は、隅々まで愚か者ばかりである。尤も、骨の髄までの売国奴だった可能性もかなり高いが。

 そうして目論見通りに政権の座に就いた習近平が、少しずつ自分の国でも、そして日本に対しても、隠していた牙を剥きだし始めている。

 小沢一郎の罪は万死に値するものとなったが、あの逆徒を当時、そう糾弾した者が(2ちゃん以外で)どれだけいたのだろう。検索してみたが、どうも芳しくない。

朝日ソノラマはなぜ鉄腕アトム主題歌を独占できたのか(27)

 『ウルトラQ』が社会的な怪獣ブームを現出させたのに続き、TBSは半年後にはカラー化して巨大超人を主役とした『ウルトラマン』を放送。

 これまた社会的な番組となって、テレビ史に新たな1ページを加えたのです。

 しかし、初の巨大ヒーロー、初のカラー特撮という称号は、わずか一週間先にフジテレビで始まった『マグマ大使』のものとなりました。

 

 橋本一郎は、虫プロで、常務から東急エージェンシーのプロデューサーを紹介され、少年画報連載の『マグマ大使』がフジテレビで放送されるのを知りました。

 尤も、この漫画には手塚治虫自身は殆ど関わっていないというのが実相のようで、手塚治虫作品と言うよりは虫プロ作品と呼ぶべきものなのかもしれません。

 後年の『サンダーマスク』もそうですが、手塚原作とされる巨大ヒーロー物は、手塚自身が関わっていないばかりか、むしろその存在をあまり快くは思っていなかった節すら有ります。

 断り切れずに名前を貸したという感じでしょうか。

 いずれにしても形としては、『ウルトラQ』に蹴散らされた手塚治虫が、『ウルトラマン』を先制したようなものとなっています。

 

 『ウルトラマン』はTBSですから日音管理で、ソノラマ独占とはならず、非常に多数のレコード会社や出版社からレコードやシートが発売され、どれもかなりのヒットとなっているかと思います。

 中でもテイチクのレコードと、やはりソノラマのソノシートが抜きん出ていたのではないでしょうか。特にテイチク盤の中古残存度が物凄いものが有ります。

 いよいよレコード会社も、「ジャリ番組」の音盤の旨味を味わったのでした。

 

 『マグマ大使』の作曲家は、橋本が三番手に推薦した山本直純が起用されました。*1

 収録の時、「カシーン、カシーン」と叫ぶ声を主役であるマモル少年役の江木俊夫がやっていたのですが、これに山本が難色を示したのです。

 そこでフジテレビの担当者が別スタジオで収録していた清水マリ(鉄腕アトム役で有名)を連れてきて試したところ、そちらでOKが出されたのでした。

 『マグマ大使』のアース様役は清水元。他ならぬ清水マリの父親ですので、番組中では、娘の方は声だけとは言え、親娘共演が実現していたことになります。

 

 『マグマ大使』の音盤は、そのようにソノラマの橋本が主導権を持っていたようですが、独占ではなく、日本グラモフォンのキンダーレコードからも出されました。

 日本コロムビアも出してはいますが、そちらはゆりかご会の歌手によるカバー盤で、番組の雰囲気からは程遠いものです。

 ですがキンダーレコードはテレビ版のままで、どのような理由で音盤化権を獲得できたのかが謎です。

 それまで子供番組音盤でほとんど目立たなかったグラモフォン(ポリドール)が、いきなり登場してきました。

 

 実売としては、やはり販売網の差が物言ってでしょうが、ソノラマの圧勝だったでしょう。

 更にソノラマは、新たに「ゴアの歌」を収録した第二集を出版。

 こちらの方もわりと売れたのではないでしょうか。

 こうして第一次怪獣ブームとも呼ぶべき時機が到来し、相対的にテレビまんがの需要も落ち着いてきました。出せばどれも当たるという時期は過ぎ、出したが売れない作品が増えていきます。

 制作関係者は、『オバケのQ太郎』『おそ松くん』の大ヒットに、SF・宇宙少年もので溢れかえった状況からの反省を見取ったのでしょう。

 昭和41年度テレビまんがに、更に新機軸が登場する事となります。 

 

*1:鉄腕アトムの歌が聞こえる」橋本一郎少年画報社

続 「生前退位」に現れる知性の絶滅ぶり

 ワタクシは、現今の表舞台にいる連中は隅から隅までロクなものではないと踏んでいるから今更驚かないが、とうとう「生前退位」という言葉を使い通すのみならず、挙げ句の果てに正しいと推しだしている。

 たしかに言葉なんて表面だけ捉えれば所詮は道具なのだから、通じれば良いという考え方も出来るし、時に応じて変わっていくものだという事も確かだ。

 ワタクシの子供の頃では考えられなかった「生前葬」という言葉が広辞苑に載る世だから、「生前退位」も多くが認めれば定着するだろう。

 ワタクシは一生涯、絶対に使わないが。

  単に制度を表す言葉としてならさほど不謹慎でもなさそうだが、その場合でも「退位」で通じるわけだから、やはりおこの所業である。

 屁理屈を並べ立ててまで使いたい言葉ではない。

 

 子供の頃のワタクシは今以上に馬鹿であったから、平気で慎みの無い事を口にしていた。例えば或る有名人が死んだら大騒ぎになるだろうという事を。

 また、自分の祖父や祖母の死もよく口にした。それはそれを願ってではなくて、そういう話をしている両親が嫌だったから、敢えて極端な話をして、そういう話を止めようとさせてであるが。

 そういう、人の死にまつわる話をすると、母親が、「言い当てるって事が有るんだからやめなさい!」と窘めたものだ。

 現今の日本人には、きっとこの感覚は通じないのだろう。

 いや、ワタクシと同世代以上でも、平気で「生前退位」などと口にできる連中にも理解できないに違いない。子供時代のワタクシも大概な馬鹿だったが、それにも劣るという事かもしれない。

 ワタクシには、当時でも、なんとなくは通じたから。

 

 日本語には言霊が宿ると考えるという事が、ごく自然に浸透していたのだ。

 だから日本には、忌み言葉などという非常に非合理的な通念が、今でも無視できないくらいに残っていたりする。

 そんなものに合理的な根拠など無いのだし、面倒臭いだけなのだから、無くしてしまった方が楽である。万事を功利的に考えれば。

 「生前」なんて言葉を生きている人間に使ったら、昔の人間なら「縁起でもない」と注意したろう。

 そりゃ、いつの世でも誰でも誤ることは有るから、そうした表現は昔だって探せば幾らでも出てくるだろう。

 それで正当性が担保されるのなら、この世に道徳など有り得ないではないか。

 

 こういうちっぽけな騒動も有る。

 これだって根は似たような事で、今上天皇諡号(死後に贈る名)を与えてしまうような話となるので、「平成天皇」とはお呼びしない。これまでの日本の常識では。

 だが、今上天皇が「生前退位」のご意向を示されたと、なんの慎みも畏まりも無く言論が飛び交う世界になって、しかもそれで「正当」だという言葉が罷り通るのであるから、この問題だって同様である。

 以前にも書いたが、「平成天皇」と呼んだ方が「今上天皇」より誰にでも判り易いのだから、これからは合理的にその様にすべきだろう。

 昭和時代にも「昭和天皇」と書いている人物、書物は幾つも有るようだから、間違ってはいないはずである。表面的な事しかなぞる事ができない者には、まさしく「どうでもいいこと」なのだから。

 ワタクシは一生涯、(生前諡号は)絶対に使わないが。

 

 もっと言えば、敬語なんてもっと面倒臭いし、天皇と国民の間に垣根を作ってしまいかねないので、もっと気さくな言葉で表現すべきだ。

 カスゴミ共が「行幸」だの「巡幸」だのという言葉を用いなくなり、ワタクシが子供の頃は「浩宮さま」とか「礼宮さま」とかが普通の呼び名だったのに、今では「敬宮さま」とは呼ばずに「愛子さま」とのみ呼称するのも、きっと似たような目論見なのだろう。

 ワタクシが子供の頃は、教師に対しても「先生がいらっしゃった」という感じの言葉遣いをしないと、一応は咎められた。

 だが、やがてそういう言葉遣いは無くなり、教師への敬意も消えていった。

 先ずは形から入るという事だって、世の中には多いのだ。

 

 皇室への敬語を減らしているのは、ほぼ間違い無く日本人から皇室への敬意を少しずつ奪おうという非常に長期的な目論見を抱いた何者かがいるのであろうと、ワタクシは推察している。言ってしまえば、アメリカと左翼だが。

 だからカスゴミが「生前退位」などという言葉を使うことは、むしろ自然だと思っているが、自分達こそが尊皇とか思い込んでいる連中までが使い倒しているのには些かの違和感を感じただけである。

 だから一応はその違和感を書いただけで、使いたければ使えば良いのだ。

 却ってそれがお里を報せてくれるのだから。

 敬語もやめて、ざっくばらんに話せばいいんじゃないか。

 ワタクシはこれからも、拙いなりにもなんとか敬語を使わなければという葛藤にこそ意味を見出すし、そういう葛藤の末に間違った表現をする人を論う事は絶対にしないで行く。

 

 事故で加療中の人物がいたとして、例えば「もし助からなかったら死者は何十何名になります」などという報道をしたら、通常の日本人であれば言いようのない嫌悪感を抱くのではないかと思う。

 しかし、あくまでも事実経過の説明に過ぎず、それで伝わる事も有るのだから合理的とも言えるわけで、これからはこういう表現も咎めないことだ。

 「生前退位」という言葉を「正当」と糊塗した連中は。

 ワタクシは現今のカスゴミの性根は芯から滓で塵だと思っているから(東日本大震災で嫌と言うほど思い知った)、そこにオンブにダッコの連中も大同小異だと思っているので、その性根が腐っていても、もう驚きはしない。

 きっとカスゴミ様が押し通せば、そういう事も通るようになるよ。

 

 制度の話としてではなく、今上陛下の意向として「生前退位」と平気で表せるという事への違和感は、文法や表現的正確さの問題ではない。

 その者の中に「畏れ」が有るかどうかという、非常に根本的な問題を、実は孕んでいるのだ。

 その「畏れ」とは、単に天皇陛下への尊皇心云々の問題だけではなく、これまでの日本人が抱いてきた言霊への「畏れ」……

 いや、もっと言えば、何かわからないものへの畏れが有るのだという事を多くの人間は認識できていないが、認識できなくとも慎みが有る人は、そんな言葉は自然に避けているはずである。悪くとも、指摘された際に躊躇いなく改めているはずである。

 まあ、なんらかの意図が有ってやっているからこそ、躊躇いなく使い続けるのだろう。だから「お里が知れる」と言うのである。